ミニ話『水銀灯さん』
鼻をつくいやな匂いと、体の自由を奪う、多くの粗大ごみの重みを
全身で感じながら、水銀灯さんは目を覚ましました。
何故こんな所にいるのか、まだ理解できていないようです。
体を包む青白い炎という情景が、断片的に思い浮かんできますが、
それ以上のことは何一つ頭の中に浮かんではきません。
今はただ、一瞬前に起こったことさえ、心にとどめておくことはできず、
ただ一秒一秒という時間を断片的に過ごしてしているのです。
“私にはやることがあったはず、とっても大事なこと”
とにかく動かなければと、比較的重圧の少ない右腕に力をこめます。
しかし腕はぴくりとも動きません。それどころか、まぶたさえも
動かないのです。まばたきをしようとどんなにちからをこめても、瞳は
閉じません。まるで壊れた眠り人形のようです。
閉じられない瞳には、この世のありとあらゆる汚い汚物が
飛び込んでくるような、そんな恐怖感が水銀灯さんを包んでいきました。
何日そうしていたでしょうか。動かない手を動かそうとし、
閉じない瞳を閉じようとして、現状から逃れたい気持ち一心で
水銀灯さんは毎日を過ごしていました。
飽きることなく繰り返される永遠のサイクル、それが水銀灯さんの
すべてとなりそうな頃に、とうとう終わりが来たのです。
だけど、それは決して喜ばしい終わりではありません。
ふいに体にかかる重圧がふっと軽くなります。上にのっていた粗大ごみが
動かされ、そして、何かがふっと水銀灯さん掴み、持ち上げました。
「うげえ、なんて気持ち悪い人形だ」
それは一人の粗野な男の腕でした。男は水銀灯さんを、
他の粗大ごみを扱うのと同様、乱暴に扱います。
水銀灯さんは、反抗もできずに、ただその男の顔をじっと見つめます。
「こいつぁ、破断機行きだな、使い道なんてねぇよ」
破断機、それがどんなものか、今の水銀灯さんでも十分分かっていました。
ジャンクにも劣る、「物」の慣れの果て、それが行き着く最後の終着点、
決してハッピーエンドでない終着点。
“ああ、いよいよ終わりのようね”
「終わり」という言葉は、水銀灯さんの中で何度も何度も、
ぐるぐると回り続けますいよいよ本当に最後なのです。
「ああ、まってまって、そのお人形さん、あたいのよう」
男の腕が止まります。水銀灯さんの頭が「破断機」と呼ばれるものに
吸い込まれていくわずか前のことです。
「この人形、お嬢ちゃんのなのかい」
「うん」
「こいつは、ごみだぜ、お嬢ちゃん。見てみろよ、表面は焼け焦げてるし、
腰から下だってないだろう?」
そこまで言われて、水銀灯さんは初めて気がつきました。今や、自分の体は
足り無いものだらけで、足りているものを探すほうが難しいほどに、何もかもが
失われてしまっていたのです。
「諦めて、あたらしい人形を買ってもらえばいいじゃないか」
「ほっといてよ、ふんだ」
女の子は半ば強引に男から水銀灯さんをふんだくりました。
腰から下が無いとは言え、水銀灯さんの大きさは大きく、
女の子の半分ほどもあります。持っているのも大変そうです。
「はじめまして、あたい、まり。そうそう、あなたの名前は?」
ここは、おそらく女の子の家でしょう。女の子は水銀灯さんを
子供用の小さい椅子にちょこんと座らせました。
“私の名前は……そう、名前は、……水銀灯”
水銀灯さんはだんだんと情報を引き出すのが難しくなってきた
記憶の引き出しを必死で探り、自分の名前を女の子に伝えようとしました。
でも、瞳が閉じないのと同じ、喉を震わせ、声を出そうとしても、
うめき声だって出てきてはくれないのです。
「ふーん、あなた、ジェニーさんっていうのね。
よろしくジェニーさん」
本当の名前を呼んでもらえなくても、もう仕方が無いことです。
とうとう水銀灯さんは、本当の名前をも失ってしまったのです。
「さあさ、ジェニーさん。まずはおぐしをきれいにしましょうね」
女の子は、ぼろぼろになったヘアブラシを水銀灯さんの髪の毛に当てます。
髪を梳かしてる間、水銀灯さんはその閉じない瞳で、あたりを見渡します。
この部屋は、お世辞にも綺麗と呼べる部屋でありません。
おそらく生ごみが入っているであろう、黒いポリ袋が何個も積み上げられ、
悪臭を放っています。これを片付けるべきである母親は、
その部屋とは対照的に綺麗に着飾り、お勝手でタバコを吸っているのが見えます。
「さあ、できましたよ、ジェニーさん」
よくよく見てみると、女の子の顔も姿も、ひどいものでした。顔は泥や埃で薄汚れ、
服は、まるでぼろ布。ひざや腕などには無数の傷や痣のようなものも見えました。
「ジェニーさんは、あたいのはじめてのおともだちよ」
女の子は、水銀灯さんにほお擦りします。水銀灯さんもそんな女の子の頬が心地良く
ただじっとしていました。
それから毎日水銀灯さんと女の子は遊びました。女の子はどこに行くでも
水銀灯さんを背中に縛って持ち歩きます。公園に遊びに出かけたり、
またある日は、どろ団子と葉っぱを使って、おままごとをしたりしました。
「ばっちーにんぎょう!ばっちいーにんぎょう!」
あるときは、男の子にそう囃し立てられたこともあります。
「ふんだ、あんたにはジャニーさんの本当が分かってないのよ」
とても心強い言葉でした、記憶も体も、ローゼンメイデンのドールで
あったことも、その殆どが失われかけている自分に残された唯一の
アイデンティティー。この言葉には、こんな姿になってしまったことも、
だんだんとちっぽけなことのように思わせるような力があるのです。
この女の子の持ち物となって、たとえ物言わぬ人形となっても、
何故かとても幸せでした。
もう、記憶の引き出しから「アリスになるということ」という言葉は
消えてしまいました。だけど、それでも十分なような気持ちで水銀灯さんは
いっぱいでした。
今、この女の子とすごしている時間が、水銀灯さんのすべてのようなのです。
でも、水銀灯さんにとって幸せな時間は、そう長くつづきませんでした。
女の子がこの家にいられなくなってしまったようなのです。
理由は分かりません。ただ、その閉じない瞳は多くのことを見続けて
きました。女の子を殴る母親の姿、食事も与えられず水銀灯さんを抱き抱えて、
ぶるぶると泣きながら震える女の子の姿。
そして、手錠をかけられ、数人の男に連れて行かれる女の子の母親の姿。
「あたいね、さよならを言いにきたの」
リュックサックを背負って女の子は水銀灯さんの前に立っていました。
右胸にはタグ付の名札が輝いています。
女の子は元気そうに振舞っていますが、その声は涙に震えています。
「あなたみたいな素敵なお人形がお友達になってくれて、
とてもうれしかったわ。だけどこれからいくところは、
お人形はもっていっちゃいけないの……とっても残念だけど」
女の子は水銀灯さんを抱きしめます。もし水銀灯さんの体が動けば、
水銀灯さんも女の子を抱きしめ返してあげたかったことでしょう。
でも、体も、声を出すべき唇も、涙を流すべき瞳もぴくりとも動きません。
物言わぬ、ただの人形としていることがこんなにもつらいことだなんて。
もし夢がかなうのだったら、もう一度体を動かして、声を発して、
女の子に本当の気持ちを伝えたい。
だけど、その夢はかなうことはありませんでした。
水銀灯さんはもう、何の力もないただのお人形なんのです。
だから、水銀灯さんは心の中で静かに、気持ちを伝えることにしました。
心のどこから沸いてきた言葉かは分かりません、過去にどこかで聞いた言葉かもしれません。
でも、とても伝えたい言葉なのです。
“わたしは……幸せな、あなたの大切なお人形……
今も、そしてこれからも、ずっと……”
その言葉が女の子に伝わったは分かりません。
でも扉が閉まる直前、女の子の顔が満面の笑みに包まれたように思いました。
水銀灯さんは、心の一番手前の引き出しにこっそりとその笑顔をしまうことにしました。
これからも絶対忘れないように。
了