題名:「ひないちごの夜」

ある日のことです。水銀灯さんが遊びにやってきました。
めずらしいお客様に桜田家は上へ、下への大騒ぎ。
のりはここぞとばかりに腕を振るいます。
今日のメニューはみんな大好き、花丸ハンバーグです。

「今日は、こんな素敵なお夕食にご招待してもらってうれしいわ」
水銀灯はみんなに向かって軽く会釈をします。
そしてみんなでいただきますをします。

でも、よく見てみると、雛苺のお皿だけ少し変です。
他の全員のハンバーグには花丸の形をした目玉焼きがあるのに、
雛苺のお皿は普通のハンバーグが乗っかっているだけです。
「ごめんねぇ、ひなちゃん。途中で卵がなくなっちゃったの。
 でも、水銀灯ちゃんがきたんだから、仕方がないわよね?」
そう言う、のりのお皿の上にも卵はきちんとのかっています。
「そのかわり、ひなちゃんが大好きなにんじんはいっぱい入れておいたから」
確かに、甘苦くて微妙にすっぱいキャロットグラッセは山の
ように入っていました。
「わあい、のりありがとぉ」
本当はのりが作るキャロットぐらっせはあんまりおいしくないので、雛苺は嫌いです。
でも、けなげな雛苺は喜んだ振りをしてのどをゴロゴロとしました。

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まもなくお食事は終わりました。
水銀灯さんはお腹いっぱい食べた様子で、満足そうに笑みを浮かべています。
雛苺のお皿の上は、キャロットグラッセが残っています。
仕方ありませんあんまりおいしくないんですもの。
「水銀灯ちゃん、そろそろ帰らなくてだいじょうぶ?」
よく見ていると、時計の針が9時と少しをさしています。
良い子ならとっくに寝ている時間のはず。
「ひなちゃん、水銀灯ちゃんのお見送りにいってあげてね」
雛苺は喜んでおっけーサイン出しましたしました。
普段水銀灯とあんまり話をしないものですから、こんなときに話しておきたいと思ったのです。
二人は桜田家を出ました、でも何を話していいか雛苺には分かりません。
“今どこにいるのぉ?”ううん、なんか変な切り出し方です。
“ミーディアムさん見つかった?”いなかったら失礼です。
「ここまででいいわ、それじゃあね」
4つ目の角を曲がった所で、水銀灯と別れました。
結局何も話せないままです、なんの為にお見送りに出たか、雛苺にもあんまりよく分かりません。

雛苺は、家つきました、でも変です。雛苺を待っていたの鍵の閉まった扉なのです。
いつもなら、ステッキを使ってノブをガチャガチャすればすぐ開くのに、
開かないということは、鍵が閉まっているに他なりません。
「ぶぅ、なんでなんでぇ?」
雛苺は精一杯背伸びをして、しかもステッキをぎりぎり端っこまでつかんで、
インターホンのボタンを押します。
ピンポーン。チャイムの後にのりの声が聞こえてきます。
「のりー、ドアが閉まってるのぉー」
でも、のりは抑揚のない低い声で、淡々としゃべります。
「ご飯を残す悪いひなちゃんは、家に入れてあげません」
そしてインターホンが乱暴に切られます。
雛苺は何もしゃべれませんでした。
自分が悪いことをしたと思って入るからです。キャロットグラッセを残したから、
花丸の目玉焼きをねだったから、
のりはすごく怒っているのです。

そうしているうちに雨が降ってきました。突然の雨です。
雛苺は家に入ることもできずに、仕方なしに軒先で雨宿りをすることにしました。
軒先程度では雨はぜんぜん防げません、容赦なしに雛苺の服に雨粒の染みを作っていきました。
「おなかすいたぁ…」
キャロットグラッセがお皿を埋め尽くしたせいで、ハンバーグは一口も食べていません。
お腹は容赦なくぐーぐーとなります。
そんな雛苺の目に飛び込んできたのは、苺色に輝くおいしそうな飴玉。地面に飴玉が落ちているのです。
雛苺は雨が降っているのをものともせず、その飴玉目掛けて飛んでいきます。
服の端っこで、二度三度埃を払うと、それをぱくっと口に含みます。
普段こんなことなんて絶対しないのに、今はそれぐらいお腹が減っているということでしょう。。
「これ、ビー玉…」
暫くして雛苺は気づきました。色は苺色でしたが、これはれっきとしたビー玉、食べ物ではありません。
でも、口の中から出すことはできませんでした。
とっても口寂しくて、出したらなんだか泣き出したい気分になりそうだったのです。

みんなの笑い声が聞こえる家の壁を背にして、
雛苺は味のしないビー玉をただ黙ってなめていました。

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大雨の中、歩道を歩く人の数はまばらですが、
車道では雨をものともせず大型ダンプカーや乗用車が猛スピードで駆け抜けて生きます。
雛苺は一枚の紙切れをぎゅっと握り締めて、ただひたすら前に向かって歩いています。
その瞳の先に、ただ一人の姿を見据えて。
「ともえ、ともえ、ともえ…」
名前を一回呼ぶごとに、目の奥にたまった涙がこぼれ落ちそうになってしまいます。

前にともえが遊びに来たときに雛苺に手渡した一枚の紙、困ったことがあったらあけるようにいわれたこの紙を
雛苺はリボンの付け根の部分にこっそりと隠していました。どんなにつらいことがあっても、
悲しいことがあっても、この紙がともえのような気がしてとても心強かったのです。
でも、今日はその紙の魔法も効きません。辛い気持ちを吐き出すように、雛苺は
リボンの中に隠しておいた紙を開いたのです。
“ばしょは、ここ”
雛苺にも分かるようにひらがなで書かれています。
町内の地図にちょこんと花丸が書かれているこの紙切れは、ともえの家への地図でした。
Nのフィールドを通って桜田家にたどり着いた雛苺にとって、ともえの家がどこだかなんて分かりませんでしたし、
第一、一人で家にたどり着けることなんでできるはずもないでしょう。
でも、ともえは雛苺のこの地図を手渡したのです、悲しいとき、辛いとき、困ったときに開けるようにと。

この坂道を越えれば、まもなくともえの家です。
雛苺は、大人でさえあがるのが大変な坂を一歩一歩、歩いていきます。
しかも今日は雨が降っているのでとても滑りやすくなっています、少しでもバランスを崩せば、
転んで、無事ではすまないでしょう。
坂の真ん中あたりまで来たところで少し休憩、容赦なく振り続ける雨は雛苺の服を美しい薄桃色から、
きついピンクの色に変色させます。
地面に手をつき、再び立ち上がろうとした雛苺をものすごい衝撃が遅います。
ダンプが、泥水のたまったくぼみを猛スピードで走り抜けていったのです、
立上がった水しぶきは、津波となって雛苺を襲います。三回転、四回転、あちらに頭を打ち、こちらに体を打ちつけ、
雛苺は飛ばされてしまいました。

気づいた時には雛苺は坂の下まで着てしまっていました。
服はあちらこちらが擦り切れて穴が開いていますし、泥染みはそうでないところを探すほうが大変なぐらい
全体にべったりとついていました。
「足…とれちゃったの…」
もっとも深刻なことは、足首の球体間接が取れてしまったことです。誰かにはめてもらえばいいのですが、
ここには誰もいません、ジュンも、ともえも、誰もかも。
もう、溜まった涙は抑え切れません。今日はなぜだかとても辛い一日でした、
ご飯は食べれなかったし、家には入れてもらえなかったし、そして今は歩くことさえできません。
涙は雨と混じりあって、アスファルトの吸い込まれて行きます。

そんな雛苺の涙目にあの紙が飛び込んできました。汚れてぐちゃぐちゃになったともえの地図は、
なんだか今の雛苺にとても似ているような気がします。でも、地図の裏側に書かれた文字は、よごれていても
しっかり読むことができました。先ほどまでは気づかなかったのですが、裏側には何かがかかれてたのです。
“がんばれ ひないちご”
それは、今まで雛苺ががんばってこれた、魔法のタネだったのかもしれません。
そして今、もう一度雛苺を立ち直らせた魔法の言葉となったのです。
「まけないの、ぜったいともえにあうんだから」
片方の手に取れてしまった自分の足を持って、もう片方の手でしっかりとガードレールをつかみます。
左足を地面につくことはできません、右足でぴょんぴょんとはねながら、
わずかずつ雛苺は坂を上っていきました。

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ここは地図に花丸のつけられた場所、ともえのお家。
とうとう、雛苺はついたのです。
足は?げ、洋服は擦り切れ、心は拉げて、
だけどようやく、そのすべてが報われるのです。
ただ一度、ともえに抱きしめてもらうだけでいいのです。
呼び鈴の音が響きます。
「こんな遅くにどなた様?」
この声には聞き覚えがあります。きっとともえのお母さんです。
「ともえ!ともえにあいたいの!なかにいれて!」
金切り声に近い雛苺の声は、心の奥から湧き上がってきた叫びそのものでした。
「今何時だと思っていらっしゃるですか。巴さんはもうお休みになられました、お引取りください」
無造作にインターフォンは切られます。雛苺は桜田家の玄関でのりに切られたことを思い出して、
また涙が出そうになりました。どうして、どうしてみんなひなに辛くあたるの。
雛苺はインターフォンのボタンを押します。
最初のうちは呼び鈴がなっていたのですが、そのうちその音も聞こえなくなります。
インターフォンの主電源が切られたのかもしれません。
それでもまだ諦めきれず、雛苺は門の木戸を何度も何度もたたきます。
「おねがい!ともえに会いたいの!ともえ!ともえ!ともえ!」

すると、雛苺の願いがかなったようです。門の扉がゆっくりと開いたのです。
雛苺はまともに使えない左足をかばいながら、その扉を目指してゆっくりと歩いていきます。
あの門の先には、きっとともえが待っているのです。

でも雛苺がドアに近づくよりも早く、中から男の人が出てきました。
首から手ぬぐいを下げた男の人は雛苺のほうをジロリと見つめます。
今の雛苺は泥色に薄汚れた服装、髪はぼさぼさ。肌だってまともな肌色はしていません。
男は携帯電話を取り出して、どこかに電話を掛けます。
「おくさま、安心してくだせえ。外にいたのはうすぎたねぇ浮浪児です、すぐにおっぱらいます」
すると雛苺をまるでごみでも払うかのように、足蹴にしました。
「おまえみたいな、やつが巴さんの友達なわけねえだろ、さあこれ以上痛い目に合いたくなかったら
 とっとと消えな」
衝撃で門とは逆の方向に大きく吹き飛ばされた雛苺は、もうろうとした意識の中でその言葉を聞いていました。
「…ともえ、ひないちごよ。きたの、ひとりで、ここまで、えらい?」
頭の中は混乱しきっていました。そして、その混乱した意識は、無意識に残った力を振り絞らせ、
ともえと会うための障害であるこの男を排除しよとしたのです。
そう、苺わだちが男の手に絡み付いていったのです。
苺わだちは、大蛇が獲物を絞め殺すときのように、ジワリジワリと男の腕をひしゃげさせていきます。
男は必死にわだちを取り除こうとしますが両腕をふさがれ、それは明らかに無理でした。
そして、ゴキッという鈍い音を立てると、男はほぼ無抵抗になったのです。
男の横を素通りすると、ゆっくりゆっくり雛苺は門をくぐっていきました。
しかし、ゆっくりと玄関のドアをあけようとした雛苺を待っていたのは、自分の横腹をつかみ持ち上げる、
警察官の大きな手だったのです。左足をかばって、少しづつ歩いてきたのですから、警察官を呼ぶ時間は
十分にあったはずです。赤色等もサイレンの音も消えていますが、確かに後ろのほうにパトカーもきています。
「さて、お譲ちゃん。私達は君がどこのだれでどのような目的で、そして、どうやってあの男に怪我を負わせたかを調べなくちゃ
 ならない。署までご同行願えないかな」
警察官は考えうる限り丁寧な言葉で雛苺に話しかけます。しかし、雛苺は、ただ空中で手をばたつかせて、
扉の取っ手をつかむことしか考えていません。心は壊れ、もう、ともえに会いたいという根源的な欲求しか考えられなくなって
しまったのです。

うっすらと薄笑いを浮かべる心の壊れた雛苺はそのままパトカーに乗せられ、警察署まで運ばれたのです。

「このままでは、児童相談所にお願いして保護してもらわなくちゃならないみたいだな」
一人の警官はほとほと疲れ果てた様子でした。

警察署に連れて行かれたといっても雛苺はまだ子供、取調室に連れて行かれるわけではありません。
多目的室の一角に机と椅子が置かれ、そこで雛苺は警察の話を聞いていました。
しかし、雛苺は何も答えることができないでいました。
ちらりと時計に目をやると、深夜12時を回っています。
こんなに夜更かしをするなんて今、とてつもなく長い時間の中を雛苺は過ごしているのです。
「もう、二度とともえにはあえないの…」
それは不意に思いついたことでした。あんなことをしてしまったのです。
もし、この警察署から出れてももう2度と巴には会えないかもしれません。
壊れた心が、その事実を受け入れるのは容易いことです。
表情をほとんど変えず、ただ雛苺は一筋の涙を流していました。

そのとき、急に部屋の黒電話が鳴りました。警察官は受話器をとると、
ああそれはよかった、はいはい、それではまた、などといい、笑顔で雛苺の前にやってきました。
「お譲ちゃん、お迎えが来たようだよ、よかったな」
警察官は本当によかった、という表情を浮かべながら、雛苺を立たせると、ロビーまで案内しました。
誰が迎えに来てくれたんだろう。雛苺は思いました。でもどうせのりかジュンのはずです。
ともえにも会えなかった、だから、あんな辛い家にもどるのはいや。雛苺の心ではそんな言葉が何度も繰り返されます。
ロビーで待っていたのは、女の子でした。のりではありません、しかし、真紅や翠星石ではありません。
そこにまっていたのは、雛苺が一番会いたい、ともえだったのです。
ともえはパジャマの上にコートをはおり、なにやら書類を書いているようでした。
そしてそれが終わると、つれてこられた雛苺の手を繋ぎ、ペコリと頭を下げます。
そして警察署をあとにしたのです。

「雛苺…おんぶしてあげる」
「でも…」
雛苺は自分の洋服がとても汚れているのと、と家の人を怪我させてしまった
罪悪感から、ともえに抱きつくことも喜ぶことも、なにもかもを控えていました。
でも、雛苺が背中にのるまで、ともえはずっとかがんだままです。
雛苺はともえの背中におんぶすることにしました。

「ごめんね雛苺、今日一日とっても辛かったわよね」
ともえは、なにもかもを知っていました。雛苺が桜田家を出た少し後、
ジュンから電話があったのです。そこで、今日、雛苺にどんなことがあったか、ともえは知ったのです。
「帰ったら、お夜食作るから…花丸ハンバーグでいい?」
でも雛苺から返事はありません。
まるで母の背中で眠る子供のように、雛苺はともえの背中で安らかな寝息を立てていました。

ともえはその姿を見るとなんだか幸せで、満点の星空の下を家に向かってゆっくりと歩いていきました。

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