……一体何度目になるだろう。
あと数センチ、今日もまた、どうしてもその一歩が踏み出せない。
震える指の先には、最早見慣れた真っ白なチャイムがあった。
視線を表札に移す。
――桜田家――
僕の受け持つ生徒の家だ。
彼は少し特殊な生徒で……そう、有り体に言えば、所謂「引き篭もり」というヤツだ。
彼がどうしてそうなったのかは分からない。
全校集会の際に突然嘔吐し、大事を取ってそのまま早退させたのだが、彼がそれから学校へ来たことはない。
……彼がどうして学校へ来なくなったのかが分からないだって?
嘘、欺瞞だ。
本当は気づいているんだ。僕のせいだって。
何度自己弁護を繰り返してみても、それは変わらない事実。
安易な僕の言動が、希望ある彼の未来を閉ざしてしまったのだ。
残された僕の唯一の贖罪は、彼を復帰させることのみ。それ以外に選択肢はない。
分かってはいる、分かってはいるのだが……。
どうすれば彼は僕に心を開いてくれるのだろう?
前回訪ねた時も、彼は途中で吐き気を催し、僕はそのまま帰らざるを得なかった。
正直、小憎たらしく思ったこともあった。
なんせ僕がどんなに誠意を見せたつもりでいても、殆ど顔さえ見せてくれないのだから。
だがしかし、そんな僕の感情は正当なものだろうか?
確かに彼は子供だ。いつまでも現実から逃げてばかりいてはとてもじゃないがこの社会では生きていけない。
だが逆説的に云えば、彼が子供だからこそ、僕に責任があるのではないだろうか?
繊細な少年の心を不安定な物にした僕にこそ責任があるのではないか?
そのことに気づいた時、彼を少しでも疎ましく思っていた自分を強く恥じた。
dがそれからというもの、僕は彼の家を訪れるのが怖くなってしまった。
どう接すればいい?どう償えばいい?
一体どうすれば彼に許してもらえる?
……堂々巡りだ。
今日もきっと、いつものように呼び鈴の前で躊躇した挙句このまま帰ることになるのだろう。
自分の不甲斐なさに溜息が漏れる。
ふと目を上げると、居間のカーテンの横から桜田のお姉さんがこちらを覗いていた。
手を振ろうとしたが、彼女は目が合うとすぐに身を翻して窓から離れてしまった。
まずい、恐らく彼女は僕が来ていることを桜田に話すのだろう。
これで後戻りができなくなってしまった……。
いっそ全く違ったアプローチをしてみたらどうだろうか?
ぶん殴って、大声で厳しく叱咤して……。
いや、駄目だ。僕にそんなことできる訳がない。
……そんな教師像に憧れていたこともあったかな……。
抵抗する生徒を力技で押さえつける、バシッ、ドカッ、ガッシャーンと「ガッシャーン!!」……何だ!?
慌てて上方を見上げると、小さなガラスの破片が落ちてきた。
間一髪の所で避ける。まさか桜田、ついにお姉さん相手に家庭内暴力までッ!?
「駄目じゃないか翠星石!」
「ふぅ〜、遊びに来てやったですよ、チビ人間」
「うわぁあああ!!! どうしてお前ら玄関から入ってこれないんだよ!!」
「下僕の癖に、そんな口の利き方をしていいと思ってるですか〜?」
「だ・れ・が・お前の下僕になったんだ?」
「もうやめなよ、翠星石……」
「甘いですよ蒼星石! 翠星石のミーディアムに選ばれたからには、上下関係を厳しく躾けなきゃいけないのです!」
……友達が遊びに来たのか?それにしても、随分派手な登場の仕方だな……。いや待てよ、まずどうやって二階の窓から入ったんだ?
最近の子供の考えることはよく分からないな。
声からして、女の子と男の子、かな?
しかし、それにしても……
桜田の奴、こんなに楽しそうな声が出せるのか……。
四六時中暗い顔して俯いているのだとばかり思っていたよ。
……なんだ、僕は、自分の生徒のことを何一つ知っちゃいないんだな。
「あのなぁ、何度も言ってるけど、僕はお前らの召使になんてなった覚えはないからな!」
「あーらあらあら勘違い、召使じゃなくてげ・ぼ・く・ですぅ」
「こぉの性悪人形! 今日こそはキッチリ社会の礼儀って奴を教えてやる!」
「引き篭もりがよく言うですぅ〜」
「むきー!!!」
「翠星石、言いすぎだよっ」
「翠星石は本当のことを言ってるだけです! あのドン臭いのりでさえちゃんと毎日学校に行っているというのに、チビ人間ときたら……」
「うるさいっ! お前なんかに何が分かるっていうんだよ!」
盗み聞きという行為に罪悪感を覚えなかった訳ではない。
本当なら窓ガラスが割れた時点で、安全が確認でき次第帰ろうと思っていたのだ。
しかし桜田がそれまでの調子とは異なった声を張り上げた時、踏み出しかけていた足が止まったのだ。
桜田の本音が聞けるかもしれない。
その思いが罪悪感に勝ってしまったのだった。
「チビ人間の考えることなんか分かる訳ないです〜!」
「僕だって……僕だってなぁ!」
「チビ人間なんて名前はもったいないくらいですぅ。チビのチビチビチビチビ人間ですぅ!」
「もうやめなよっ!!」
「僕だってなぁ……学校に……行きたいと、思ってるさ……」
今僕の耳は確かに、彼の、桜田の「学校へ行きたい」という言葉を捕らえた。
心臓の鼓動が高鳴り、視界が歪んで見えるほど衝撃的だった。
彼は、本当は、学校へ行くことを望んでいた?
「でも怖いんだよ! 怖くて、気持ち悪いんだ、みんなからの視線が……吐きそうになる。僕が何より嫌なのは、他人から特別視されることなんだよ。学校なんか行ったって、アイツは他と違うって、気持ち悪いって、後ろ指さされるだけなんだ……」
「それは違うよ、ジャム君」
「蒼星石……」
「僕は真紅たちほど君のことをよく知らないけれど……君が凄くいい人だってことは分かる」
「……」
「辛いことから逃げてばかりじゃ、何も始まらないよ。何があったのかは分からないけれど、勇気を出して一歩進みさえすれば、必ず何かが変わるんだ。自分に勇気がないのを、他人のせいにしちゃ駄目だ」
「わかっ……てるよ……」
「きっとみんなにも伝わるよ。君の思い、君の優しさが。少しずつでいいんだ。何が正しくて何が間違っているのかを、君はもっと考えるべきだと思う」
「……わかったよ」
僕も同じだ……。
僕は逃げていたんだ、桜田から。
踏み出す勇気がなかった。いや、踏み出しても、いつも浅い所で空回りしていたんだ。
あれだけ自己嫌悪しておいてなお、桜田が理解してくれない、本心を出してくれないって、無意識の内に全てを彼のせいにしていたんだ。
大事なのは踏み出すより踏み込むこと。
表面的なことばかりに惑わされて、桜田の本質的な面まで踏み込めなかったんだ。
そして偽善的でありがちな台詞を吐いて、精一杯説得した気でいたんだ。そして自分を納得させていた。
僕は、大馬鹿だ……。
「分かったなら即実行です! 今すぐ学校に行って来いですぅ!」
「今すぐぅ!? それはまだ、ちょっと……」
「えーいドン臭いチビ人間です! 今やらない者はいつまで経ってもやらないままですぅ!」
「翠星石、君はまず散らかしたこの部屋を片付けるべきだと思うよ」
「そ、それは明日やるからいいですぅ」
「翠星石……」
くすくすと苦笑しながら、僕は踵を返し、彼らの楽しげな会話に背を向けた。
今日は桜田の家を訪ねるのはやめよう。
彼には一人で考える時間が必要なんだ。
なに、大丈夫さ。彼にはあんなにいい友達がいるんだ。
今は僕の出る幕はない。
もしそれでも駄目だったら、今度は、本音と本音でぶつかり合えるような、そんな関係を築いていこう……。
そして僕は今後の桜田の行動を楽しみに、桜田邸を後にする……ハズだった。
「あ、ちょっといいですかー? このお宅の娘さんから通報がありましてね……。家の前に不振人物が何時間も突っ立ってるって」
「ちょwwwwwwwwwww桜田のお姉さんwwwwwwwwwwwwwwwwww」
「さっきはありがとな、蒼星石」
「ううん、勝手なこと言ってごめんね」
「うん、それはいいんだ。でもさ、蒼星石……」
「なに?」
「僕 は ジ ャ ム じ ゃ な い」
「マジで?」
〜おわり〜