「大嫌いだった……。」
 
胸の奥底に響く悲しい台詞。
 
あの日から繰り返し見る夢。思い起こされる惨劇。
むせ返るような薔薇の香りの中で、起こった忌まわしい出来事。
 
蒼星石はもういない。
ローザミスティカを失った彼女は、もう二度と動くことはない。
覆すことのできない事実は残酷に翠星石を襲う。
 
「蒼星石……。」
 
瞳から涙がこぼれる。
蒼星石と対になっている、紅と緑のオッドアイ。
一筋では収まらず、幾筋も幾筋も、涙の川は頬の上を流れていく。
 
「大嫌い……だけ…ど……誰より……大……」
 
このときの蒼星石の台詞を、翠星石はよく覚えていない。
『誰より大好きだよ』と、彼女は言おうとしていたのだが、
この直後、水銀燈によって蒼星石のローザミスティカを奪われてしまったことの方が
翠星石にはより衝撃的だったからだ。
悔やんでも悔やみ切れない想いを抱え、翠星石は今日もまたあの日の夢を見ていた。

暗く、冷たい闇の底。
翠星石は膝を抱えて泣いていた。
自分に対する怒りと蒼星石への切ない想いに身を焦がしながら。
あのときのことに関しては、水銀燈に対するよりも、自分に対して翠星石は怒っていた。
勿論、水銀燈が憎くないわけではないが、油断していた自分が悪いのだと、
一番近くにいたのに油断していた自分が悪いのだと、今でも自分自身を責め続けているのだ。
 
そんな翠星石の元に、一筋、光の糸が下りて来ていた。
気付いた翠星石が顔を上げると、ふわふわとした雲のようなものの上に、
蒼星石の姿があった。
 
「駄目だよ。この暗闇でそんな顔をしていては、悲しみに呑まれてしまう。」
 
凛と響く声は間違いなく蒼星石のものだった。
光の糸は彼女の右手の指先から下りていた。
思わずその糸を掴みながら、翠星石は叫んだ。
 
「蒼星石……!」
 
少年のように凛々しい姿。涼しい目元。
そして、誰より大好きな笑顔がそこにあった。
 
「そう。蒼星石……。僕の名前だね。名前なんて便宜上の些細なもの。だけど、大切なもの。」
 
どこともなく遠くを見つめて自分の中の古い記憶を呼び覚まそうとする蒼星石。
そんな彼女に若干戸惑いを覚えながらも、翠星石はもう二度と会えないと思っていた
蒼星石の姿を、瞳に焼き付けるかのようにじっと見つめた。
すると、蒼星石は光の糸を手繰り寄せ、翠星石を引き上げた。
翠星石は軽い人形なのだし、ここは夢の中。
いともたやすく翠星石は、蒼星石の乗っている雲の上に引っ張り上げられていた。

「君が呼んでくれたおかげで、僕は大切な自分の名前を思い出せた。ありがとう。」
 
首を少し傾げると、サラサラとした髪が揺れる。
蒼星石の無邪気な微笑みに、翠星石は少し顔を赤らめた。
両手をしっかりと繋いで、蒼星石が翠星石を見つめている。帽子はかぶっていない。
蒼星石の思いつめたような瞳に、翠星石が何故だか空恐ろしいものを感じた瞬間、
異常なほどに顔が近付いていた。
翠星石は思わず声をあげる。
 
「だ、だめですぅ! 蒼星石……! 姉妹同士で、こんな……こんなの……!」
「姉妹……? ああ……そうだったね……。僕たちは薔薇の絆で結ばれた姉妹……。
 永遠の薔薇乙女たち……。そして、僕と君は特に仲良しの双子……。」
 
蒼星石は翠星石の頬を愛しそうに撫でながら、更に唇を寄せる。
 
「だから……こうするのが自然だろう……?」
 
翠星石は目を閉じた。
これからされようとしていることに抵抗感はあるが、翠星石にとって、蒼星石は大事な妹。
それも、姉妹の中でも特に大好きな妹なのだ。
蒼星石を傷つけるのが怖い翠星石は、抗い切ることができず、蒼星石の唇を受け入れてしまう。
 
一線を越えてしまった。翠星石にはもう残された砦などなかった。
執拗に繰り返される口付けに、体をまさぐる両手。
もう何をされても拒まなかった。
むしろ、自分からも蒼星石を求めてしまっていることに、翠星石は気付いていた。
 
「大好きだよ、翠星石……。本当に……愛してる……。」
 
蒼星石が甘く囁く声がはっきりと聞こえている。
翠星石は言葉でなく態度で表そうと、蒼星石の首に手を回した。

 
 
 
 
 
 
 
 
「翠星石! 翠星石っ!」
 
翠星石の開かれた目の前にあったのは真紅の顔だった。
真紅は湯気が出そうなほど真っ赤になって、少し怒ったような表情を見せている。
これほどまでに近くで彼女の顔を見たのは初めてだった。
それは、唇が触れる寸前の出来事だった。
 
「真紅……?」
 
未だ寝ぼけたままの翠星石は、真紅の首に自分が手を回しているのに気付いた。
慌ててその手をほどき、真紅を解放してやる。
すぐさま、真紅は高圧電流にでも触れてしまったかのようにさっと飛びのいた。
 
「の、のりがご飯ができたからって……。は、早く目を覚ましなさい。もう……。」
 
真紅の顔はまだ赤いままだ。
彼女は昼寝をし過ぎていた翠星石をただ呼びに来ただけなのだった。
なのに突然翠星石に抱きつかれ、唇を奪われそうになり、焦っていた。
ジュンも一部始終をはたから見ていて、いつになく冷静さを欠いている真紅の姿を笑っていた。
真紅はそんなジュンのすねに一撃与えると、部屋を飛び出していった。
 
残された翠星石は、まだ夢うつつの区別のつかない頭のまま、
先ほどまでの蒼星石とのことを思い出していた。
 
(夢って、自分の願望が表れるもの……ですよね。)
 
だとすれば、翠星石は深層心理ではあれを望んでいたということだろうか? 
そのことを思いついたとき、翠星石も真紅に負けないほど顔を真っ赤にしていた。
 
「何変な顔してんだよ、性悪人形。」
 
嫌味ったらしいジュンの声に、はっきりと目が覚めた翠星石は、
真紅が蹴ったのと違う方のすねに蹴りを入れ、そそくさと部屋を出て行った。
 
                                     (終わり)

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