どれくらい時間が経っただろうか。私はリビングのソファーに身を横たえていた。キッ
チンで倒れたはずだが、と思いつつ私は身体を起こした。まだ頭が朦朧とする。目の前に
心配そうな表情の翠星石がいた。私が起きたのに気付くと、翠星石は慌てて顔を背けた。
「まったく、水の入った桶で殴られたくらいで気絶するなですぅ」
「無茶を言わないで欲しいな、生身の人間に対して」
「鍛え方が足りないです」
私の反論に、翠星石は素っ気無く言い放った。鍛え方とかそういう問題だろうか。相手
が人形だったから助かったようなもので、これが人間だったら最悪の場合命を落としてい
るところだ――あ、だから鍛え方が足りないのか。
「ところでデカ人間、ちょっと聞きたい事があるですけど」
翠星石が問い掛けてきた。貼りついたような笑顔なのが大いに気になる。
「何かな?」
「その……」
翠星石はゴニョゴニョと口篭もった。声が聞き取りづらいので顔を近づけたのが、私の
大きな間違いだった。
翠星石が笑いながら、素早く私の胸元を掴んだ。その笑顔は『貼りついたような』では
なく『貼りついた』ものだった。ついでに言うと、こめかみには笑顔を突き破るかのよう
な勢いで怒筋が浮き上がっていた。
ギリギリと首が絞められるのを感じる。同時に、翠星石は私の首を激しく揺さぶった。
「いつどこで水銀燈と会ったですっ! 一体水銀燈に何をしたですかっ! さあっ、キリ
キリ白状しやがれですっ!」
「あの……苦しいんだけど」
「うるさいうるさいうるさいっ、ですっ! 首を絞めてるし脳みそを揺さぶってるですか
ら、そんなの当たり前ですっ! お前はとっとと白状すればいいですっ!」
言ってることもやってることもめちゃくちゃだ。この光景をロボット三原則の生みの親
アシモフが見たら卒倒するだろうか。それとも「アンティーク人形はロボットじゃないか
ら問題ない」と言うだろうか。それ以前になんで私の首を絞める? 理不尽だ。
お花畑が見えかけてきたその時、どこからか救いの声が聞こえた。
「そのへんになさい、翠星石」
真紅だった。ジュン君や蒼星石、雛苺もいる。真紅はいかにも切羽詰ったような物言い
だったが、どことなく様子が変だ。笑いを堪えるのに精一杯といった感じで、肩がぴくぴ
くしている。顔も紅潮している。他の皆も似たり寄ったりだ。
まさか一部始終を見られていたのか? 翠星石が慌てて私から手を離した。
「し、真紅っ? ま、まさか覗いていたですかっ?」
「ごめん翠星石。丁度ケンカが始まっちゃったから部屋に入りづらくて……」
オッドアイを白黒させる翠星石に、蒼星石が謝った。ジュン君が意地悪く笑った。
「水銀燈に嫉妬してるのか、性悪人形」
「なっ! 何を言うですかチビ人間! 翠星石は、ちっともこれっぽっちも欠片も微塵も
少しも毛ほども嫉妬なんかしてないですっ! デカ人間がもしも水銀燈に不埒な事をした
のなら、同じ薔薇乙女として許しちゃおけないだけですっ!」
「はいはい。そういうことにしておくわ」
真紅がクスクス笑った。翠星石はそれを見て膨れっ面になった。
「デカ人間、お腹が空いたです。晩ご飯を作れです」
もうそんな時間なのか? と腕時計を見てから、私は、翠星石から何の脈絡も無い理解
不能な命令をされたのに気付いた。
「――はい?」
「今日はのりが『がっしゅく』とかいう行事に参加するから、帰ってこないです」
「はあ。で、なんで僕が作る事になるわけ?」
「チビ人間が料理を作れると思っているですか?」
「客に料理を作らせてなんとも思わないのか?」
そう。元々私は客のはずだ。紅茶を淹れるくらいの労なら厭いはしないが、料理を作れ
とはどういう料簡か。
そんな私のまっとうな疑問に、翠星石は私の向こう脛に蹴りをいれる事で答えた。
余りの痛さにしゃがみこんだ私に、翠星石が言った。
「客だからと偉そうにしていていい道理はないです! つべこべ言わずに作れですっ!」
「……はい」
突っ張りきれなかった自分が悲しい。そんな私に「耳を貸して頂戴」と、真紅が声を掛
けてきた。私が頭を近づけると、真紅が私の耳元でささやいた。
「よかったわね、翠星石に気に入ってもらえて。あの子は素直じゃないから」
気に入られている? 面食らった私に悪戯っぽく笑いかけ、真紅は私から離れた。そん
な様子を見ていた翠星石が、何故か面白くなさそうに大声を張り上げた。
「何やってるですっ? デカ人間、ちゃっちゃとキッチンに行けです!」
「はいはい」
腰を上げた。誰かにジーパンの裾を引っ張られた。私の足に取り付いた雛苺が、上目遣
いにおずおずと『花丸ハンバーグ』なるものが食べたいと言ってきた。聞き返そうとした
私に、ハンバーグに花の形をした目玉焼きを載せたもので、のりが良く作ってくれるメニ
ューだと、蒼星石が教えてくれた。上手く作れるかは分からないけどやってみよう。私が
そう伝えると、雛苺は嬉しそうに笑った。
「それと紅茶もお願い。今度はテーブルに飲ませてはダメよ」
真紅の穏やかな口調が、逆に失敗したときの怖さを実感させられた。
「ああああっもう! そんなところでグダグダ話している暇があったら、さっさと挽き肉
をこねろですぅ!」
いつの間にキッチンに行ったのやら、翠星石が姿を出した。ドレスの上から可愛いエプ
ロンをつけている。
「……材料はあるの?」
「なかったらデカ人間をキッチンに呼びやしないですっ!」
プッと膨れる翠星石だったが、まぁ、その通りだろう。材料がなければ「とっとと材料
を買ってくるです、デカ人間!」と怒鳴るはずだ。
「しょ、しょうがないから、翠星石も手伝ってやるです! ほら、さっさと来るです!」
照れたような、拗ねたような口調の翠星石を見て、私は真紅の言ったことを反芻した。
「気に言ってもらえた、のかな?」
キッチンからおたまが飛んできて、私の足元に落ちた。
「鈍感で優柔不断で気が多いデカ人間なんかちっとも気に入らないですっ! ほらっ、今
すぐキッチンに来やがれですっ!」
翠星石がこちらに背中をむけて怒鳴った。やっぱり独り言は自分独りのときに言うべき
だな、と思う。苦笑しながら、私は足を向けた。
イマイチ素直さに欠ける、緑色のドレスを着たアンティーク人形の待つキッチンへ。
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夕陽色に染まった交番の中で、私、泉田準一郎は黙々と書類作成に追われていた。
交番にいるのは私1人。相勤の警察官は、私に書類整理を押し付けどこかに行ってしま
ったようだ。私の机の上には、未整理の書類が私の身の丈ほどに積まれている。書類をこ
んなに溜め込むなんてどうかしている。腹立たしい限りだ。
それにしても、いつの間に出て行ったのだろうか? 気付かなかった。
仕事の手を休め、ふと出入り口に目を転じると、2つの影が交番内に伸びていた。誰か
来たらしい。慌てて机上から書類を除け、私は声を掛けた。
「どなたですか? 何がありましたか?」
私の声を待っていたかのように、人が1人、また1人と入ってきた。合計2人。
いや、人ではなく人形だった。どちらにも見覚えがあった。
「ジュンイチロウ、こんばんはなの〜」
「一別以来ね、泉田」
雛苺と真紅だった。
雛苺が満面の笑みで元気に言葉を発したのと対照的に、真紅は微笑を浮かべながら静か
に言葉を発した。
「あ、えっと……どうしてここに?」
「随分と小さな仕事場ね。お父様の工房と同じくらいかしら」
私の問いかけに答えず、真紅は交番の中を珍しそうに見回している。雛苺が私の足元に
駆け寄ってきた。
「エヘヘッ、ヒナたち遊びに来ちゃった♪」
「――遊びに……って、あのねぇ……」
「泉田、お茶を淹れて頂戴。出涸らしは許さなくてよ」
「ねぇねぇジュンイチロウ、抱っこして〜♪」
道行く人たちに怪しまれなかったのだろうかと、一応心配している私の思いを知ってか
知らずか、どこまでもマイペースな真紅と雛苺だった。
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「どうしたの泉田?」
「……よくご近所さんに怪しまれなかったなぁと、感心していたんだ」
ある意味で、だが。私の言葉を聞き、真紅は事も無げに言った。
「何を言っているの? ここはあなたの夢の中。私が道を歩こうと、雛苺があなたによじ
登ろうと、他の人間の関知するところではないわ」
……夢? 夢だって? この不思議な人形は、人間の夢の中に入り込めるのか。
にわかには信じ難いが、立って歩いてお茶を飲む人形達のする事だ。もはや何でもあり
である。そう思った私の脳裏を、何気なく聞き流した雛苺の挨拶が過ぎった。
「……そういえば、さっき雛苺は『こんばんは』と言ってたっけ」」
「気付くのが遅いわよ? それにしても泉田、あなたは夢の中でも仕事をしているのね」
「ヒナね〜、ヒナそういうのをなんて言うか知ってるの〜。ジュンイチロウは『おしごと
ちゅうどく』なの〜♪」
「そうなの? 可哀そうに、泉田……」
雛苺、どこでそんな言葉を覚えたんだ。せめて『ワーカーホリック』と言って欲しい。
同じ内容の言葉でも、横文字で言われたほうがナンボか気が楽だ。というか真紅、頼む
から、「衷心からお悔やみ申し上げます」とでも言いたげな、憐憫の情をたたえた目で私
を見ないでくれ。頭を抱えた私をいぶかって、真紅が声を掛けてきた。
「泉田、どうかしたの?」
「……いえ、なんでもないです。それで、仕事中毒にかかっている警察官の夢の中を覗い
た感想は?」
「――なんだか険のある言い方ね」
半ば自虐的な私の言葉に真紅は眉を顰めたが、人の夢の中に勝手に入ってきて好き放題
言われて、気分の良い人間がいたらお目にかかりたいものだ。せめてこれくらいは言わな
いと気が治まらない。ふと、真紅の瞳に陰が落ちた……ように見えた。
「泉田、実はあなたに見せたいものがあって、今日はここに来たの」
「見せたいもの?」
「来れば分かるわ、いらっしゃい」
真紅が、そしてやや遅れて雛苺が、夢の中の交番を出て行く。追いかけようと、腰を浮
かせた私だったが、視界の隅に積み残した書類の山が入った。
どうしようかと思ったその時、外から真紅の笑いを含んだ声が聞こえてきた。
「泉田、夢の中の仕事は、いつまで経っても終わらなくてよ? 気分転換だと思って早く
いらっしゃい」
真紅の笑いは「しょうがないわね」と呆れてのそれ――いわゆる苦笑というもので、決
して私を馬鹿にしているわけではない。そう解釈した私は真紅達の後を追うことにした。
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交番の外に出ると、そこにはだだっぴろい空き地があった。現実世界だと、ちょうど同
じ場所に公園があるのだが。辺りはうっすらと靄がかかっているが、視界は比較的良好。
真紅たちは空き地に足を踏み入れていく。私も後に続く。
ほんの数メートル歩いたところで、急に真紅が歩みを止めた。真紅の後を差なくトレー
スしていた雛苺が、避ける間もなく真紅にぶつかった。
「きゃっ! ちょっと雛苺、痛いじゃないの。ちゃんと前を見なさい」
「そんなこと言われても〜。真紅〜、急に止まらないでなの〜」
真紅の理不尽発言に、鼻の頭を押さえながら、雛苺が筋の通った不満を漏らした。
真紅はそれを黙殺すると、私を見た。
「……泉田」
「はい?」
「抱っこして頂戴」
「――は?」
「『は?』じゃないわ。抱っこして頂戴。雛苺も抱っこしなさい」
真紅は両手を差し出してきた。雛苺は無邪気に「わ〜いわ〜い、だっこ、だっこ〜♪」
と喜んでいる。いささか唐突過ぎる要望の真意を測りかね、私の頭上をクエスチョンマー
クがくるくる回っている。真紅が何事か呟いた。
「……あなたの歩幅では、私たちにあわせて歩くのが辛いでしょう?」
「えっと、聞こえなかったんだけど……」
本当に聞こえなかった。良く聞き取れるようにと、しゃがんだ私の左頬を微かな衝撃が
走った。どうやら真紅がおさげで引っぱたいてくれたらしい。
真紅は腰に両手を当てながら口を開いた――両頬を紅潮させながら。
「つべこべ言わずに抱っこしなさいっ!」
右腕に雛苺を、左腕に真紅を抱きかかえて、どれくらい歩いただろう。私の目の前に、
1本の樹が現れた。
「ここでいいわ、下ろして頂戴」
真紅の言葉に従い、私は真紅と雛苺を地面に下ろした。
真紅は目の前の樹を黙って見つめている。優しく真摯なその眼差しは、しかしどこか寂
しさを感じさせる。雛苺も同様の眼差しだ。
「この樹は……一体?」
「これはね、泉田、あなたの心の樹よ」
真紅の声は静かで優しかった。
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「心の樹?」
「そう。今のあなたの心を写し出す、いわばあなたそのものの樹」
真紅の声が私の心に染み入ってくる。穏やかに語るその表情は、なんとも言えない気品
に満ちていて、気付けば私は思わず横顔に見入っていた。真紅に呼ばれなければ、間違い
なくいつまでも見つめていただろう。
「い・ず・み・だ、何を見ているの?」
「――え……あっ!」
真紅が悪戯っぽく笑っていた。なぜかばつが悪くなり、私は目の前の樹に目線を逸らし
た。真紅もそれに倣い、話を再開した。
「幹が真っ直ぐで、しかもしっかりと根を大地に下ろしているわ。泉田、あなたの心の樹
はとても立派よ」
「……なんだか、恥ずかしいな」
「どうして? あなたの心でしょう?」
真紅が問いかけてきたが、私は聞こえないふりをした。自分の心の奥底を覗くなんて気
恥ずかしい。いや、恥ずかしさよりも恐ろしさが先に来てしまう。見たくない、あるいは
見てはいけないものがそこに渦巻いているような気がするから。そんなものは他人には絶
対に覗かれたくない。
「恥ずかしがる事は無いわ。心の樹がこうまで真っ直ぐに伸びているという事は、それだ
けあなた自身が真っ直ぐに生きてきたという事。曲がったり、雑草が絡みつく隙が無いく
らいに」
「雑草?」
「樹の根元を御覧なさい」
真紅に言われたとおり樹の根元を見ると、そこには雑草が数本生えていた。この雑草に
も、何か意味があるのだろうか。
「この雑草は、あなたの心の奥底にあるあなたの嫌な思い出。あなたの心の成長を妨げる
要因となるものよ」
「へぇ……」
「まぁ、雑草の形態をとるものもあれば、つる草のような形態をとるものもあるわ」
「……よかったよ、つる草に纏わり付かれなくて」
「そうね。私もそう思うわ」
知らず知らず私の口から安堵の溜息が漏れた。現実のつる草だと、種類によっては巻き
ついた樹木に根を生やし、養分を横取りした挙句、樹木を枯らしてしまう事もある。これ
が心の問題だったらどうだろう。嫌な思い出が常に心に纏わり付き、それを払拭する事も
適わず、気が付けば身も心も蝕まれ、最終的には……想像しただけでゾッとする。
「きっと、泉田の育ち方が良かったのね」
「正直、こんなに真っ直ぐな生き方をしてきたとは思えないけどね」
生きていれば1つや2つの曲がった事に関わるものだ。親の財布から金をくすねたり、
高校生あたりになると煙草を吸ったり。私もその口だ。そう言うと真紅は「まぁ……」と
呆れたように笑った。
「でも、その都度その都度親や周りの人から怒られて……」
「だから曲がらずに済んだのだわ、あなたも、あなたの心の樹も」
「……そうだね」
ふと、私の心に1つの疑問が沸き起こった。
「真紅、どうして僕にこの樹を見せようと思ったんだ?」
一瞬真紅の表情が強張った。少しの沈黙の後、真紅は口を開いた。
「……私が見たかったからよ。ついでであなたを連れて来た、ただそれだけなのだわ」
真紅は口をつぐんだ。嘘ではないだろうが、何かを隠しているように私は感じた。ふと
見ると、雛苺が何か言いたそうに佇んでいる。私の職業的勘で言えば、こういう時は質問
の矛先を雛苺に向ければ、十中八九雛苺は落ちる――あくまでも真紅から顰蹙を買うのを
厭わなければの話だが。
「……そっか」
結局、こう返すしかなかった。真紅は力なく微笑み、「ごめんなさい」と呟いた。
「……真紅ぅ、そろそろ帰らなきゃなの……」
雛苺が悲しそうに真紅を促した。いつもの機敏さを微塵も感じさせない、やけに重たい
仕草で、胸元から取り出した懐中時計で時間を確かめると、真紅は私を仰ぎ見た。
「泉田。どうか、いつまでも……真っ直ぐでいて頂戴。それから……」
「え……何?」
真紅の声のトーンが急に落ちた。もぞもぞと動く口から、何事か言葉が紡ぎ出されてい
るようだが、良く聞こえない。私はしゃがんで口元に耳を近づけた。一瞬、おさげで引っ
叩かれるのではないかと危惧したが、それは全くの杞憂に終わった。
「!」
真紅の唇が私の頬に触れ、すぐに離れた。呆然とする私に追い討ちをかけるように、雛
苺の唇が反対側の頬に触れた。
「泉田、今までありがとう」
「ジュンイチロウと遊べて、ヒナ楽しかったの」
今生の別れを思わせる言葉とは到底結びつかない、真紅と雛苺の笑顔を見ると同時に、
私の意識は混濁の闇に落ちていった。
どこかで鋏が操られる音が聞こえた。
それは、軽やかで悲しげな響きだった。