少女が病院で息を引き取った。
 彼女は心臓を患い、幼い頃から病室が生活の場だった。
 不治の病だと知った両親は絶望し、彼女と関わりを持たないようにしていた。
 だから、長い入院生活の中でも、彼女に面会人が来る日は年に数えるほどしかなかった。
 孤独な彼女の葬式は、それは静かなものだった。
 彼女のために涙する者はおらず、ただ淡々と式が進行していく。両親は、肩の荷が下りたような顔をしていた。
 その一部始終を一体の人形が冷めた目で見ていた。

 真夜中、それは音も無く現れた。
 ガラス窓に小さな波紋が広がり、黒い翼が水面を割って出てくる。暗闇よりも暗い翼を持つ彼女が、静かに着地して部屋を見渡す。
 床には古めかしいい鞄が三つ。中には彼女の姉妹が入っているはず。ベッドに少年が一人。彼は三つの鞄の持ち主であるジュン。彼女はそれだけ確認してベッドに足を向けた。

 ジュンが小さな寝息を立てている。彼女はほくそ笑み、翼を大きく広げる。そして、白く美しい手をジュンの首へと伸ばす。

「――ッッ!?」

 圧迫感で目覚めたジュンが、馬乗りになる水銀燈に目を見開く。声を出そうにも、それもできない。彼女に首を絞められているのだ。それも、小さな手に似つかわしくない豪腕で。
 苦しむジュンを見ながらも、水銀燈の笑みは消えない。彼女の瞳は狂気じみていた。
 確かな殺意を感じたジュンは、逃れようともがく。だが、変幻自在の翼に両手を押さえられ、それもままならない。
 諦めてもその先に待っているのは確実な死だ。ジュンは無駄を承知の上で、まだ自由に動かせる両足を死に物狂いでばたつかせた。

 意識がだんだん遠くなる。もう、足が動いているのかも判らない。
 そんな中で、水銀燈の気持ちよさそうな顔だけは、はっきりと認識できた。
 ジュンは沈みかける意識の中、妙に冷静な思考をしていた。
 やっぱり、こいつらは呪いの人形だったんだ。死んだら、お姉ちゃんが悲しむかな。お父さんとお母さんはどうだろう。
 真紅や雛苺や翠星石は――

 そこまで考えた時、三つの鞄が同時に開く。

「ジュンッ!!」

 一斉にマスターの名を呼びながら鞄から飛び出す。ジュンはその声を最後に意識を手放した。

「ジュン〜ぅ、目を開けてなのぉ……っ!!」
「こら、チビ人間、早く起きるですぅ! じゃないと、その冴えない顔に落書きして、もっと冴えなくするですよっ!」

 ジュンは騒々しい声で意識を取り戻した。彼は寝た時と同じ格好でベッドで寝ていた。雛苺が泣きじゃくり、翠星石が罵声に近い言葉を浴びせ続ける。
 いいかげん耳障りになってきたジュンは、重い瞼をゆっくりと開ける。

「あっ! ジュンが起きたのぉ!!」
「ジュン!」

 三人が一斉にジュンを覗き込む。全員の目尻に涙が込み上げていた。ジュンは気だるげに起き上がり、まだ重い頭に手を当てる。

「なんか、頭がくらくらする……」
「重度の酸欠状態だったから仕方が無いのだわ」
「チビのくせに心配させるなですぅ」

 真紅と翠星石が涙を拭って安堵の笑顔を見せる。雛苺は早速ジュンの背中をよじ登っていた。
 間もなく、朦朧としていたジュンもまともに思考できるまで回復する。

「――ッ、水銀燈は!?」

 意識が飛ぶ前の事を思い出したジュンは、身を固くして背筋を伸ばす。彼の首筋に乗っかっていた雛苺は、振り落とされてベッドに仰向けになる。

「あう〜、ジュンひどいの〜」
「水銀燈なら、私たちを見てすぐ逃げ帰ったわ」
「この翠星石が追っ払ってやったです。土下座するほど感謝しなですぅ」

 ジュンを襲った水銀燈は、他の人形達に邪魔されるとすぐに退散した。ともかく、ジュンは目の前の三人に救われたのは確かだった。
 人形に助けられたのだが、その人形に殺されかけた。感謝していいのかよく判らなかったが、とりあえず、ジュンは心の中でお礼を言った。

 この水銀燈の襲撃が、凄惨を極めるアリスゲームの開幕の予兆であった事に、まだ誰も気が付いていなかった。

薔薇乙女戦争

 陽も落ち、桜田家で偵察を終えた金糸雀は、マスターの待つ我が家への帰路に着こうとしていた。
 大鏡のある物置へと向かいながら、今日の戦果を思い浮かべる。

「今日も無事に帰れるかしら。おやつも食べられたし、満足かしら」

 金糸雀は偵察だと言い張るが、その実は遊びに行っているのと何ら変わりない。
 今日も呼ばれてもないのに桜田家へと押し掛け、ちゃっかりとおやつの紅茶とお菓子を頂いてきたのだ。
 彼女を表立って歓迎するのは、遊び相手を欲しがる雛苺と、善人ののりだけだったりする。
 物置に入った彼女は、至極当然のように、正面の鏡へと歩を進める足を踏み入れた。

 鏡が白い光を放ち、そこからかわいい手足が生えてくる。

「みっちゃん、ただいまー」

 所変わって、ここは金糸雀のミーディアムが住んでいる家。二つの鏡をnのフィールドで繋げ、短時間で桜田家から帰還したのだ。

「あれ?」

 金糸雀が首を傾げる。マスターが寄って来ないのだ。いつもなら、金糸雀の帰還の声を聞いたとたん、猛スピードで出迎えに来る。そして、有無を言わさず金糸雀を抱き上げ、異常とも思える愛情表現の限りを尽くすのだ。
 マスターの帰宅時間はいつもと同じだと、出勤前に聞かされていた。予定外の仕事で遅れているのかもしれない。でも、部屋の灯りは点いている。
 金糸雀は不思議に思いながら、マスターを探してみることにした。

 それを見つけたのはキッチンだった。

「み……みっちゃんッ!!」

 絶叫に近い悲鳴が上がる。動揺した金糸雀が、足をもつれさせながらそれに駆け寄る。キッチンの床で、彼女のミーディアムがうつ伏せになって転がっていた。
 ガスコンロに掛けられた鍋からは、煮えたぎった蒸気が噴き上がっている。夕餉の匂いに誘われて、金糸雀はこれを見つけてしまったのだ。

「みっちゃん、しっかりッ!! みっちゃんッッ!!」

 マスターの体を揺らして大粒の涙を落とす金糸雀。もう手遅れなのを彼女の頭は理解していた。
 背中にはナイフが深く突き立てられ、床一面には赤い水溜りが広がっている。
 そして決定的なのは、床で寝る彼女の左手。薬指にあるはずの指輪がない。あれは契約の指輪。ドールの同意無しでは外せない物だ。
 当然、金糸雀に契約を破棄する意志はない。だが、契約は解かれている。それは、ミーディアムの存在が消えたことを意味している。命が消えたことを意味している。

「幻よ! こんなの、誰かが仕組んだ罠に決まってるわ! そうに違いないかしらぁッ!!」

 金糸雀はありとあらゆる可能性を必死に考え、現実を遠ざけるように声を荒げた。

 夕食時、桜田家に急な来客が訪れる。キッチンのテーブルに集まっていたみんなは、その客の姿を見て一様に絶句した。食器の音が止み、全員が口を動かすのを忘れる。
 そんな中、真っ先に我を取り戻したのは真紅だった。フォークを置き、口を空っぽにして声を掛ける。

「金糸雀、どうしたの?」

 客は今帰ったばかりの金糸雀だった。しかし、みんなの反応から分かるように、普通の格好はしていない。
 手や顔、着衣の所々は血で汚れ、焦点の合っていない眼球は微動だにしない。何も言わずに現れ、そのまま突っ立っている彼女は、どう見ても異常だった。
 問いにすぐには答えなかったが、真紅は黙って待った。そして、金糸雀が重い口を開く。

「……みっちゃんが死んだ」

 その一言に、ジュンとそのドールズは戦慄した。

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 金糸雀の話を聞いては、悠長に飯を食べている場合ではなくなった。とりあえず、彼女の酷い姿を何とかする。血で汚れた洗濯物をのりに任せ、手と顔を洗わせた。
 それから、ジュンと人形達は金糸雀を囲み、事情を根掘り葉掘り聴こうとする。しかし、ショック状態の彼女からは思ったように聴き出せない。それでも、断片的に話す内容から少しずつ事情が見えてきた。

「水銀燈の仕業に違いないですぅ!」

 翠星石が大きな声を張り上げた。その人形の名に、金糸雀と蒼星石が強く反応する。すっかりここに入り浸っている蒼星石も、一緒に夕食をご馳走になっていた。

「どうしてそう思うんだい」
「それは……」

 蒼星石と金糸雀は、ジュンが水銀燈に襲われた事を聞いてなかった。話してなかったのを悪いと思った翠星石は声を小さくする。代わりに真紅が話した。

「つい先日、ジュンが水銀燈に襲われたの」
「ジュン君が!?」

 蒼星石が驚いてジュンを見る。ジュンは「まーね……」と怖がっているのを隠すために、大物ぶって頭を掻く。
 夕食の後片付けに追われる姉がこの場にいないのは幸いだろう。もし、今の話を聞けば、泣き出すか卒倒するか、どちらにせよ面倒が増えるのは目に見えている。

「私たちが眠っている間に仕掛けてきたわ。黙っててごめんなさい」

 水銀燈の話を知り、蒼星石は顔を青くする。
 ジュンは真紅と翠星石のミーディアム。殺された人は金糸雀のミーディアム。
 ここから先は容易に推測できる。

「マスターが危ない!!」
「蒼星石、待つですぅっ」

 顔色を変えて駆け出す妹を、姉の翠星石が追う。他の者も二人の後に続いた。

 時計店に駆けつけた時、事はすでに終わっていた。

「何て惨いことを……」
「おじじ、おばば……」

 老人が二人、二階の部屋で重なり合うように倒れていた。この部屋の鏡台から入った双子の姉妹は、来て最初に見たのがこの無残な光景だった。
 非力な老人では、ほとんど抵抗できずに殺されたようだ。外傷は見えなかったが、生存は確認する前から絶望的だった。

 追って残りの人形達が鏡から抜け出てくる。彼女達も一目で結果を理解した。

「手遅れだったようね……」
「そんな。おじいさんとおばあさん、死んでるのか……?」

 現実に遺体を目の当たりにし、ジュンは動揺を隠せなかった。まだ中学生だから無理もない。彼はは恐怖で足も動かなかった。

「なぜ、どうしておばばまで……!?」

 翠星石が疑問を挙げた。彼女はお婆さんのマツに特に可愛がられていた。マツはミーディアムでも何でもないただの一般人。口封じで殺されたとしたら、犯人は相当に悪質だ。
 感情が高まり、悲しみに耐えられなくなった翠星石は、ジュンの足に縋りつく。足下ですすり泣く彼女に、ジュンは何もしてやれなかった。

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 このままにしておくのも忍びない。ジュンは真紅に言われ、亡くなった老夫婦を布団に寝かせてあげた。何年も眠り続けていたお婆さんの体は軽く、殺した犯人にどうしようもない憤りを感じた。
 蒼星石と翠星石は、布団の脇から離れようとしなかった。

「なぜ、こうも早くマスターが狙われる? 契約だってまだなのに……」
「おばばだってそうですぅ」

 蒼星石は「マスター」と呼んでいるが、ミーディアムとしての契約はまだしてなかった。
 それは、相手は生命力の乏しい年寄りだったためだ。年配の体にアリスゲームは辛すぎるだろう。蒼星石は可能な限りミーディアムの助力を受けたくなかった。いずれ苦しくなったら契約を、と考えていたのだが、まさか契約前にミーディアムの候補者を失うとは。
 悲嘆に暮れていた蒼星石だが、時が経つにつれ、怒りががふつふつと湧いてくる。

「水銀燈、許さないよ……!」

 復讐するような発言を漏らす蒼星石。この殺害により、彼女の中で犯人は水銀燈と結論付けられた。薔薇乙女の関係者が一日で三人も殺されたのだ。強盗殺人などの可能性は確率的にありえない。ドールが関係するなら、最も怪しいのは水銀燈だ。

「待って。まだ水銀燈がやったと決まったわけではないわ」

 それを聞いた真紅は、蒼星石を窘める。安易に姉妹を疑ってほしくはなかった。ただでさえ、彼女達ドールズはアリスゲームという呪われた使命を背負って生きているのだ。瞬く間に大事になるのが目に見えている。
 しかし、この場でこのような発言をしても逆効果だった。翠星石と金糸雀が目の色を変えて真紅に噛み付いた。

「こんな事をしでかすのは、あの陰険陰湿女しかいないですぅ!」
「じゃあ、他に誰がやったのかしら?」
「それは……」

 親しい者を殺された二人に猛反発され、真紅も言葉を失くした。

「キャアアアッッ!!」

 突然、鏡台から悲鳴が聞こえた。この声は、一人で残してきたのりだ。
 ジュンの全身が痺れ、嫌な汗が噴き出す。今現在、人が殺された現場にいるところなのだ。最悪の予感が頭をよぎる。彼は鏡に飛び込み、全速力でのりの元へ向かった。
 彼は気が動転しているため、物置で体のあちこちをぶつけながらも走る。リビングに駆け込んで姉を大声で呼んだ。

「お姉ちゃん!!」
「ジュン君!」

 のりは無事だった。エプロン姿で床に尻餅を着いている。しかし、その前にはドールの姿が見えた。

「水銀燈ッ!!」
「あらぁ、おかえりなさぁい」

 水銀燈が馬鹿にしたような笑顔で迎える。ジュンは怒りを露にして睨み返す。

「姉ちゃんに何をしようとしたッ!!」
「何って……少し遊んでもらおうとしただけよぉ」

 平然とした顔で返答をはぐらかす水銀燈。その間に、のりは四つん這いになってジュンの元へ逃げる。

 そうこうしているうちに、他の人形達も戻ってきた。蒼星石が庭師の鋏を構えて質問する。その顔は冗談が通じそうになかった。

「一つ訊きたい。僕のマスターに手を出したのは水銀燈、君か」

 一瞬、眉を顰めてから不敵に答える。

「さぁ、私は知らなぁい。アハハハハ」

 最後の高笑いが蒼星石の癇に障る。鋏を握る手に力が入った。今にも飛び掛ろうとした時、金糸雀も同じ質問をする。

「じゃあ、私のマスターは?」
「それも知らないわぁ。でも、もし私だったらどうするつもりぃ?」
「こうするのさッ――」

 どこまでも人をおちょくる水銀燈に、ついに蒼星石も痺れを切らした。大きな鋏を振りかざし、水銀燈に叩き付ける。対して水銀燈は翼を盾のように広げて受け止めた。

「危ないわねぇ……――ん?」
「ピチカート!」
「メイメイ」

 蒼星石が動いたのを皮切りに、他の姉妹達も武器を手に戦いを始める。人工精霊が飛び交い、無数の黒い羽が舞う。雛苺はジュンの影に隠れ、一人冷静な真紅は怒声を張り上げた。

「貴女達、おやめなさいッ!!」
「スィドリーム!!」

 真紅の怒声が戦いの声に掻き消された。もはや、止められるような戦いではなかった。憎しみという黒い感情に支配され、相手を破壊するまで気が治まらない。翠星石まで加わり、三対一の戦いが始まった。

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 リビングの壁が穴だらけになった頃、戦いの決着がつこうとしていた。
 三人を相手するのは、いくら水銀燈でも無理がある。しかも、その相手が死ぬ気で向かってくるのだから尚更だ。
 馬鹿じゃない彼女は、それも解っていた。逃げようと思えば、それもできた。が、彼女は何故か逃げなかった。

 両翼をへし折られ、蔓に手足を拘束された水銀燈は、最後の時を迎えようとしていた。

「言い残すことはあるかい。最後だから何でも聞いてあげるよ」

 蒼星石が鋏を喉元に突きつけて、止めを刺す宣言をする。こんなになっても、水銀燈は薄ら笑いを絶やさなかった。

「何でも聞いてくれるのぉ? だったら、あなたのローザミスティカが欲しいわぁ」
「救いようのない姉を持って残念だよ」

 水銀燈の笑えない冗談に冷笑を返す蒼星石。鋏を振り上げ、狙いを首に定める。そして、一気に振り下ろす。

「待って!!」
「――ッ!?」

 すんでの所で鋏が止まる。真紅が間に立ちはだかったのだ。腕を広げて水銀燈を庇う。あとわずかでも腕を止めるのが遅れていたら、真紅が頭を割られているところだった。

「真紅、どくんだ!」
「できないわ」

 真紅は凛として譲らない。二度も水銀燈を失うわけにはいかなかった。その行動に驚いていた水銀燈だが、すぐに唇の端を吊り上げる。

「真紅ぅ、どいてもいいのよぉ?」
「言ったでしょ。私は姉妹を失いたくないの」

 そんな言葉で蒼星石は説得できない。彼女は歯噛みしてから真紅に警告する。

「どの道、僕らはアリスゲームで姉妹を失うことになる。それが早いか遅いかの違いだけだ。どうしてもどかないなら――」

 もう一度、挟みが大きく振りかざされる。

「――真紅ごと斬るッ!!」
「どかないわ」

 わずかな間も置かず迷い無く答えた真紅に、蒼星石の決意が鈍りそうになる。
 ここに来て、水銀燈から薄ら笑みが消えた。真紅の行動が、並大抵ではない思いからのものだと知ったためだ。

「蒼星石、やめるですぅ!」
「蒼星石、やめるのぉ!」

 翠星石と雛苺がやめさせようとお願いする。双子の姉の翠星石でも、蒼星石の意見に賛成できなかった。水銀燈は憎いが、彼女も真紅と同じでアリスゲームには否定的なのだ。
 彼女は妹の蒼星石を絶対に失くしたくなかった。それは、自身がアリスになれない事を意味している。アリスになれないのなら、戦う意味がない。
 姉が反対しても、蒼星石は鋏を引こうとしない。それだけ、マスターの死を重く受け取っていた。彼女の忠誠心は誰もが認めるものだった。

 張り詰めた空気の中、やっとの思いで間に入る者が現れる。

「やめるんだ!」
「ジュン君、邪魔しないで!!」

 それは傍観するしかなかったジュンだ。真紅の身まで危ない事態になり、堪らず足を踏み出したのだ。

「僕は真紅のミーディアムだ。これがアリスゲームだと言うなら、黙って見ているわけにはいかない」
「ジュン……」

 これには蒼星石も言い返せなかった。
 そして、真紅にはジュンがとても頼もしく見えた。いつからか、彼女は彼に厚い信頼を寄せるようになっていた。ジュンにはそう思わせる何かがあった。普段は頼りない子供なのだが、いざとなると信じられない勇気を見せる。

「それに、水銀燈の話もまだちゃんと聞いてないじゃないか。こいつは知らないと言ってるし」
「人間……」

 信じてくれた事に心を揺さぶられる水銀燈。首を絞めて殺そうとした相手が味方になってくれるとは思ってなかった。
 もっとも、ジュンにそのつもりはない。ただこの場を凌ぎたいだけの言い訳だった。
 ともかく、ジュンの活躍のおかげで、水銀燈から話が聞ける事になった。

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「水銀燈、もう一度訊くわ。本当にあなたじゃないのね?」
「私じゃないわ」

 あれから、真紅による尋問が行われていた。水銀燈の体は蔓に巻かれ、未だ拘束されている。
 彼女は最初の言葉通り、二件の殺人への関与を否認している。どうやら、本当に無関係らしい。蒼星石と金糸雀は全く信じてないが……。

「では、質問を変えるわ。ジュンを襲ったのはなぜ? のりを襲ったのはなぜ?」

 この質問をされたとたん、それまですらすらと喋っていた水銀燈が口を噤んだ。真紅は話し出すまで辛抱強く待つ。
 そして、不安に負けた水銀燈の激白が始まった。

「そこの「ジュン君」を襲った理由はねぇ――」

 おとなしかった水銀燈が、わざとらしくジュンを名前で呼び、薄ら笑みを浮かべる。

「――あなた達が当然のように人間と暮らしているのを、我慢できなかったからよッ!!」

 その発言を聞き、蒼星石と金糸雀が息巻く。自分が犯人だと言っているようなものだ。

「やはり君が……!!」
「やったのかしらッ!!」
「そんなのは、どっちでもいいわぁ」
「なんだと!?」
「親切な誰かさんが殺してくれたけれど、いずれは私がそうするつもりだったんだからぁ。あと、雛苺の元ミーディアムも標的に入っているのよぉ」

 何かが吹っ切れてしまった水銀燈は、ぺらぺらと話して笑い転げる。恐ろしい話に雛苺が泣き出してしまい、知り合いの名前が出てジュンも厳しい顔になった。

「トモエ、死んじゃイヤぁああっ」
「そんなことさせるか!」
「そうねぇ、できないわねぇ。私はここでジャンクにされるんだからぁ」

 死ぬのが怖くないのか、水銀燈は狂ったように挑発を繰り返す。見ていられなくなった真紅が、場を収めるために次の質問をする。

「貴女をジャンクになんてさせないわ。それよりも、何が貴女をそうさせたの? 何があったの?」

 人間嫌いにしては異常すぎる。真紅はもう一つ深い所を尋ねた。
 すると、水銀燈の様子が急変し、気持ち悪いほど静かになった。この質問は核心を突いていた。そして、水銀燈が真実を打ち明ける。

「……私のミーディアムがね、死んだの。いいえ、殺されたのよおッ!!」

 怒号のような声が場を静まり返させる。水銀燈がマスターを持っていたとは初耳だった。しかも、すでに亡くなっているとは。同じ境遇だと知り、蒼星石と金糸雀も黙るしかなかった。

「あの子は初めから死に損ないの出来損ないだった。でも、ちゃんと生きていた。私のために生きていた。なのに……!!」

 水銀燈が涙を流す。彼女の涙は真紅とジュンしか知らない。真紅にアリスへの夢が断たれたあの時、彼女は泣いていた。お父様に逢えないのが悲しくて……。
 彼女は人に弱みを絶対に見せない。その彼女の涙は特別だ。水銀燈もマスターとの間に、かけがえの無い絆があったのだ。

「あの子は病院のベッドで安らかに眠っていたわぁ。だけど、首にあったの。絞められた跡があったのよ」

 彼女のミーディアムは病気だった。だが、死因は病気ではなかった。首を絞められて殺されたのだ。だから、ジュンを同じように殺そうとした。
 水銀燈の赤い瞳が暗く濁る。

「いつもそうなのよ。私だけ何かが足りない。生まれた時には体の一部が。そして今度はミーディアム……」

 水銀燈は未完成のまま目覚めさせられた。それは、完全な少女アリスを目指すローゼンメイデンには、これ以上なく屈辱的な事。
 彼女は体にも心にも深い傷を負って生きてきた。体の欠落は直せても、心の傷は簡単には消えない。二度目の傷心は、とても繊細な彼女には辛すぎた。

「だから人間を殺すの。だって、不公平でしょう。私のミーディアムは死んだのに、あなた達のは生きている」

 水銀燈が涙を振り払って姉妹達を見回す。

「あっ、蒼星石と金糸雀のは死んだんだっけぇ? アハハ、アハハハハハ」

 今度は大声で笑い出した水銀燈。笑っているのに、泣いているようにしか見えない。その痛々しい姿は見るに堪えない。

「もうよせよ!」

 悲しい馬鹿笑いを止めたのはジュンだった。ぶつけようのない怒りで腕が震える。

「それ以上、自分を傷つけなくていい」
「あら、そんなふうに見えるぅ?」

 慰めの言葉に対して水銀燈は強がって笑ってみせる。彼女のプライドの高さは真紅にも劣らない。

「もう誰もお前を責めたりしない」
「そうかしら?」
「少なくとも僕はお前を責めたりしない」
「他のみんなは?」

 水銀燈がおかしく笑って顔を見やる。蒼星石と金糸雀が、やるせない気持ちに襲われて顔を背ける。

「私も責めたりしないわ」
「ヒナも仲良しがいいの〜」
「ジュンがそう言うなら、私も別に……」
「お、お姉ちゃんも気にしてないから。はは……」

 真っ先に許したジュンに促されるように、他の者も続いた。翠星石は渋々といった感じで。襲われたのりは引き攣った笑みを浮かべて。
 まだ笑っている水銀燈にジュンは言った。

「僕も真紅と同じ気持ちだ。お前に壊れて欲しくない。誰かが壊すと言うなら、僕と真紅でお前を守る」

 水銀燈は信じられないという顔で息を止める。そして、次の瞬間には盛大に吹き出した。

「プハァッ、アハハハッ、私を守る? 真紅と人間のあなたが? 傑作だわぁ。アハハハハハハ」

 水銀燈は下品に見えるほどゲラゲラと笑い続ける。さすがにこれにはジュンも閉口するしかなかった。
 人の好意を足蹴にする態度に、場の空気が険悪度を増していく。しかし、水銀燈は笑うのをやめようとしない。

「――ハハッ、ハハハ、アハハハハ……ハハ……」

 次第に笑い声が小さくなっていく。笑いすぎて疲れたのだろうか。場の全員が、そんなふうに考える。しかし、それは違った。

「うぅ……めぐ……めぐぅっ……!!」

 誰かの名を口にすると、一転して嗚咽を漏らし始めた。
 この後、すぐに彼女は解放され、この家で一夜を泣き明かした。

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「ジュン君、真紅ちゃん、雛ちゃん、翠星石ちゃん、蒼星石ちゃん、カナちゃん、水銀燈ちゃん、ご飯よ〜」

 のりの夕食に呼ぶ声が響き渡る。人数が多くて呼ぶのも一苦労だ。そのうち「みんな」だけに短縮されそうだ。

 あれからいくらか時間が経ち、人形達にも大分落ち着きが戻りつつあった。
 蒼星石と金糸雀は行く当てを無くし、前から慣れ親しんでいたこの家に居ついている。
 水銀燈は真紅の誘いに負けて食事を一緒にするようになってから、なし崩しでここに住むようになった。
 根無し草を続けていた水銀燈だが、何度も食事に誘われるうちに、夕食時には自ら姉妹達の待つ家を訪れるようになった。いつしか、そのまま夜も居座るようになり、今では寝起きも共にしている。彼女も人恋しさを覚えたのかもしれない。
 こうして六体のローゼンメイデンが集まる状況になり、夜はジュンの部屋で皆が揃って眠りに就いている。床に並ぶ六つの鞄は圧巻だ。

 ただでさえ賑やかだった家に三体のドールが加わり、飯時はまさに戦場だった。
 特に、金糸雀の参戦は影響が大きかった。翠星石、雛苺、金糸雀が争いを繰り広げ、それにジュンが巻き込まれる。

「いただきですぅ〜」
「あーっ、私のお肉が!? ならば、こっちから頂きかしらッ」
「それヒナがとっといたのにぃ〜。ジュン〜」
「またか……ほらよ」
「キィ――ッ、チビ人間あげるなですぅ!」
「なんでだよ」
「だったら、私ももらうですぅ」
「じゃあ、カナも〜」
「ヒナもヒナもぉ」
「ああッ、僕の分が……!!」

 今も食べ物の取り合いで、ジュンの食糧が底を着こうとしていた。
 それに対し、真紅、蒼星石、水銀燈の組は優雅なまでに穏やかだ。どこかの貴族を思わせる食事風景は、のりをうっとりとさせる。

「のり、紅茶のおかわり」
「はい」
「すみません、僕も」
「はいはい」

 のりはまるで給仕係のように忙しく動き回る。人形にいいように使われても、楽しそうな彼女だった。

 夕食後、しばらくしてジュンがお風呂に入る。真紅はそれを確認してから、他の姉妹を呼び集めた。真紅には是が非でも実現したい事があった。

「なぁに? 真紅」
 二階のジュンの部屋に六体のローゼンメイデンが集う。食事時以外でこのメンバーが一度に顔を合わせるのは稀だ。
 全員揃ったか見回してから、真紅が口を開く。

「金糸雀に水銀燈。ここの暮らしはどうかしら」

 何の前触れも無く出た問いに、水銀燈は眉間を狭くして訝しがる。金糸雀は特に何も感じなかったようだ。普通に感想を述べる。

「けっこう快適かしら。みっちゃん家ほどじゃないけれど」
「最悪よぉ。狭いし、うるさいし、人間が居るしぃ」
「そう」

 水銀燈の言い様に「だったら、とっとと出てけですぅ!」と叫ぶ者が一人。
 だが、水銀燈のこれは当然本心ではなかった。ここが最悪なら、毎晩帰ってきたりはしない。
 それを解っている真紅は、別に気にした素振りを見せない。その知ったふうな態度が、水銀燈は何だか気に入らなかった。

「それが何? そんな話をするためにこの私を呼んだの?」
「これが本題じゃないわ」
「だったら、早くその本題とやらを言いなさいよぉ」
「そうね。回りくどい事はやめにするわ」

 この後、真紅がする話に全員が驚きを隠せなかった。

「反対ですぅッ! 蒼星石はともかく、水銀燈なんて以ての外ですぅっ!」

 翠星石が大反対の声を上げた。これは真紅が出した提案に対するものだ。

 提案の内容は要約するとこうだ。
 蒼星石、水銀燈、金糸雀。この三人もジュンと契約させたい。
 この大胆な発言を聞いた時、初めはどんな反応をすればいいのか、全員が分からなかった。そして、第一声が翠星石のこれだった。

「指輪の契約は、ドールとミーディアム個々の問題。他のドールに反対する権利はないわ。翠星石、あなたにも」

 反対された真紅が事も無げに反論する。これが正しいのなら、全員を集めた意味がなさそうだが、そうでもない。今後の関係を考えての事だ。真紅は隠れて契約を勧めるような真似はしたくなかった。
 翠星石は言い返せずに地団太を踏む。契約という重要な事で我侭は言えなかった。

「三人ともどうかしら」
 真紅が反応を窺い、ミーディアムを持たない三人が真剣になって考える。

「僕は当分はマスター無しでいいよ。どうしても必要になった時に、また考えさせてもらうってことでいいかな」
「私もまだいいかしら」
「あんなガキはごめんよぉ。ま、数年して、大きく強くかっこよくなってたら、選んであげてもいいわぁ。今があれじゃ、それも無いでしょうけど」
「そう……残念だわ」

 見事な空振りに終わり、真紅は酷く落胆する。そんな彼女の真意を知りたくて、水銀燈が問い掛ける。

「あなた、手当たりしだいにあの子と契約させて、どうするつもり?」
「私は姉妹全員が仲良くして欲しいだけ。ミーディアムの契約を中心に繋がれば、もっと解り合えると思うの」
 真紅の願いは姉妹の誰も失わないこと。そう伝えてから「翠星石」と名を呼ぶ。
「なんですぅ?」
「私と同じミーディアムを持つあなたなら解るでしょ? ジュンを通して感じるお互いの心を」
「それは……解るかもですぅ……」

 恥ずかしがりの翠星石は、俯き加減に答える。
 確証は無いが、真紅の言っていることが正しい気がした。契約でジュンが感じている真紅を、間接的に感じていてると考えれば、納得できなくもない。夢が世界樹で繋がっているように、人の心も繋げられると翠星石は思えた。

 話は理解したが、水銀燈は顔を顰める。その甘っちょろい考えに虫唾が走った。

「アリスゲームはどーするのよ」
「アリスゲームはお父様の願い。私もその期待に応えたい。でも、私は貴女達姉妹も大切なの」
「お父様が悲しむわよぉ」
「きっと解ってくれる。お父様なら……」
「ふんっ、勝手にすればいいわ」

 水銀燈は変わり果ててしまった真紅に少なからず失望した。
 アリスゲームはローゼンメイデンが生きる意味そのもの、そう言って憚らなかった彼女が、今では人の心配ばかりしている。

 同時に、変われる彼女が羨ましくもあった。
 昔から、水銀燈は嫌われるような態度でしか、人と関係を持てなかった。未完成品の彼女は、嫌われるのを恐れていたからだ。
 嫌われるくらいなら、こちらから嫌えばいい。
 彼女はそうして心を閉ざした。

 そんな水銀燈も、ミーディアムとの契約を機に変わり始めていた。
 彼女は人間を嫌い、マスターを持とうとしなかった。なので、最近の契約は、彼女の意志が無視されたものだった。
 しかし、彼女はマスターを使い捨てにしようとはしなかった。いや、できなかった。
 相手の人間が、水銀燈を歓迎して受け入れてくれたのだ。ローゼンメイデンが人の命を喰らう呪われた人形と知ってだ。
 私の命を使って欲しい。病弱なマスターにそう頼まれた時、水銀燈の冷たい仮面に亀裂が入った。
 今も水銀燈は、その仮面から覗く感情に苦しめられている。
 そんなものは、とうの昔に捨てたはずなのに……。
 水銀燈は歪みそうになる顔を隠すように窓へと飛ぶ。

「こんな時間からどこへ行くの」
「どこでもいいでしょう? 私は好きにやらせてもらうからぁ」

 制止をものともしないで外へ出る水銀燈。彼女の姿は闇夜へと同化していく。
 乙女の一人が抜けたことで、話はここでお開きになった。

----
 夜中に鞄の一つが開く。中からのそりと頭を出したのは真紅だった。
 彼女は並んだ鞄を数える。一つ、二つ、三つ――自分のを合わせて六つ。
「水銀燈は帰ってきたようね」
 真紅は安堵して表情を緩める。
 就寝前、事を急いて水銀燈を仲間に誘ったのが失敗し、彼女が家を飛び出してしまった。心配していた真紅だが、水銀燈はあれからひっそりと戻ってきていた。

 夜中も過ぎそうなこの時間、夜更かしの多いジュンもすでに眠っている。真紅はベッドの彼を見てから、カーテン越しに入るわずかな明かりを頼りに部屋を出た。

 果てしなく続く西洋の古い街並みを、真紅は独り歩く。
 ここはnのフィールド。
 もう夜も遅いというのに、彼女は何を考えているのだろうか。
 真っ直ぐに前を見て歩く姿から、探し物をしているようでもなさそうだ。
 だが、真紅は探し物をしていた。今から、目当ての人物が石畳の道の先に現れる。

「薔薇水晶、探したわ」

 探し物は第七ドールの薔薇水晶だった。真紅は独りでnのフィールドをうろつき、彼女を誘っていたのだ。
 しばしの間、薔薇水晶は無言で真紅と向かい合う。見合っていても仕方がないので、真紅が話を切り出した。

「貴女にお話があるの」
「なに?」
「当分の間、アリスゲームは自粛しなさい。貴女に勝ち目はないわ」
「なぜ?」

 一方的な勝利宣言とも取れる言葉に疑問符を浮かべる薔薇水晶。その顔はあくまで冷静だ。

「他の姉妹達は私と寝起きを共にしている。この意味が解るわね?」
「解らない……」
 ここまで言ったら解りそうなのを解らないと言う。真紅は苛立つのを抑え、その意味をずばり教えてあげた。
「全員が敵になったのよ。六対一では、貴女でも無理でしょ」
「ふふっ……」

 不意に薔薇水晶が笑い出した。絶望的な立場のはずの彼女が、余裕の笑みを見せる。
 得体の知れない態度が、真紅の気を荒立たせる。
「何がおかしいのッ?」
「とてもおかしい。そして嬉しい。やはりあなたは紅のローゼンメイデン」
 この言葉の意味を測り兼ね、真紅は憮然とする。
 そこへ、いやに紳士的な声が、どこからともなく割り入ってきた。

「可愛い可愛いお嬢さん方、このような夜更けに逢引ですか?」

 真紅は見回して、その声の出所を探した。
 見上げた煙突のてっぺんで、ウサギの頭をした奇妙な人物が手持ちのステッキをくるりと回した。タキシードに蝶ネクタイがやけに決まっている。
 このウサギ人間が苦手なのか、真紅に警戒の色が見える。

「ラプラスの魔、今はこの子とお話中なの。邪魔しないでほしいわ」
「これはとんだ失礼を。人の恋路を邪魔するつもりは露ほどもありませんので。どうかお許しを」
 ラプラスの魔は仰々しくお辞儀をし、手に持ったシルクハットを被り直す。
「ですが、この大変な時に浮気などしていてよろしいのでしょうか」
「どういうこと?」
 真紅は嫌な予感に襲われ、反射的に聞き返した。ラプラスの魔の戯言は馬鹿にできない。謎が多い彼の情報力は侮れない。

「そのきれいな紅いドレスは、一体何で染まっているのでしょうか。私はあなたのパートナーが心配でなりません」

 真紅の脳裏に大切な少年の顔がよぎる。この言い様だと、ジュンが危険な状態に陥っているとしか思えない。
 居ても立っても居られなくなり、真紅は通常空間へ戻ろうと扉へ急いだ。

 物置の大鏡から帰った真紅は、夜中でも足音も気にしないで階段を駆け上がった。

「ジュンッ!!」

 らしくない大声で呼びながらドアを開け放つ。

「あら、真紅、おかえりなさぁい。待ってたわぁ」

 出迎えたのは水銀燈の凍て付くような視線。蒼星石と金糸雀も人を殺しかねない目で迎える。
 だが、真紅が探しているのはジュンだ。そんなものは気に留める程度だ。

「真紅!」

 ジュンの呼ぶ声が聞こえる。彼は無事だったのだ。ひとまず不安が弱まった真紅は、ここで周りが見えてくる。
 ジュンの左右に雛苺と翠星石。それに相対して水銀燈、蒼星石、金糸雀が立つ。どうやら二つに分かれて対立している様子だ。
 ジュンが眉を吊り上げたまま真紅に問い質す。

「真紅、お前じゃないよな? 何もやってないよな?」
「何を……?」

 興奮気味のジュンは要点を抜かしてしまう。質問が分からないままでいる真紅に、水銀燈がずばりと補足する。

「とぼけても無駄よ。私のミーディアムを殺したのは真紅、あなたでしょう?」
「僕のマスターとおばあさんも」
「金糸雀のみっちゃんもよッ」

 こうまではっきりと言われたら、認めないわけにはいかない。どういうわけか、真紅がミーディアム殺しの犯人だと疑われていた。

「馬鹿らしいわ」

 一笑に伏そうとする真紅だが、そう容易にはいかない。蒼星石が根拠となった出来事を述べる。

「夢の中でラプラスの魔に会ったよ。それで、彼が教えてくれた。やったのは真紅だってね……」
「ふざけたウサギだけど、こんな悪質な悪戯はしないわ」

 薔薇乙女達はラプラスの魔に聞かされていたのだ。
 真紅は会ってきたばかりのウサギの顔を思い出して歯噛みする。おそらく、薔薇水晶も聞かされていたのだろう。あの不可解な受け答えは、そうとしか思えない。

「私じゃないわ」

 真紅はきっぱりと否定した。
 どちらにせよ、そうするしか道がなかった。もし真紅が黒だとしても、認めてしまったら全てが終わる。
 謝って済む問題ではない。謝っても、水銀燈は絶対に許さないだろう。確実に真紅は生き残るための戦いを強いられることになる。これではアリスゲームが始まってしまう。

「真紅は違うって言ってるじゃないか!」
「そうですぅ。何かの間違いですぅ」
「そーなのそーなの。真紅じゃないのっ」
 ジュンは真紅を信じて擁護した。おばあさんが殺された翠星石も、自身の希望に縋るように味方した。妹の蒼星石と対立する事になり、すでに涙目だ。
「嘘を言っているのは真紅の方よ」
「ラプラスの魔は僕達よりもお父様に近い存在」
「嘘は言わないかしら」
 依然、それに真っ向から反論する被害者組の三人。ラプラスの魔は、難解な話し方が多いが、常に真実しか語らない。真紅が犯人だと確定したようなものだった。

「もうこんな馴れ合いや〜めたぁ」

 睨み合うこと数分。水銀燈のおちゃらけた声が均衡を破った。
 ここで言い合っていても埒が明かない。早々に判断した彼女は、ついに最後の手段に出る宣言をする。

「私は真紅をジャンクにしないと気が済まないの。アリスゲームを始めましょう?」
「水銀燈、何をッ!?」
 恐れていた事態になり、真紅は必死な目で食い掛かる。
「別にどうってことないわ。元の私に戻るだけ。それだけじゃないの」
「そうだね。アリスゲームを始めよう。それがお父様の望みでもあるし」
「私達ローゼンメイデンの生きる意味でもあるわ」
 蒼星石と金糸雀まで賛同し、いよいよ最悪の展開に向かって動き始めた。
「蒼星石、馬鹿な考えは捨てるですっ!」
「翠星石、君が真紅の味方をするなら、僕と真っ先に戦うことになる。その時は容赦しないよ」
「蒼星石……」

 双子の姉が妹を引き戻そうとするが、蒼星石に聞く耳はない。説得する間もなく、開戦派の三人は家を出て行った。眠りに必要となる大切な鞄を持って。それは、もうここには帰らないという意思表示だった。

----
「みんな〜、朝ご飯の用意ができたわよ〜」

 のりの大きな声で一日が始まる。普段ならこの声で皆が一斉にキッチンへと集まり、賑やかな朝食となる。
 だが、今朝は様子が違った。一番に雛苺がとぼとぼとキッチンに来ただけで、その後が続かない。
 おかしいと思ったのりは、独りぽつんとテーブルに着く雛苺に聞いてみた。

「雛ちゃん、他のみんなは?」
「うゅ、ジュンと翠星石は寝てるの。真紅はもう少ししたら来るって……」

 雛苺が困り顔で答える。翠星石が鞄で塞ぎ込んでいるなんて言えなかった。
 雛苺が朝起きた時、隣の鞄の中からすすり泣く声が聞こえてきた。あれから夜通しで泣いていたのだろう。

「蒼星石ちゃんと水銀燈ちゃんと金糸雀ちゃんは?」

 一向に出ない名前をのりが尋ねる。のりは昨晩の騒ぎでも目を覚ます事も無く眠っていた。ある意味、彼女は大物だ。だから、事情を全く知らなかった。
 ますます返答に困って雛苺は「あうあう」と狼狽する。

「その三人なら家を出て行ったわ」

 代わりに答えたのは、いつの間にか二階から下りてきていた真紅だった。
 のりは呆然と真紅の言葉の意味を考えていた。それを気にする素振りも見せず、真紅はテーブルの指定席前に行く。
「のり、椅子を引いてちょうだい」
 のりは言われるままに椅子を引き、真紅がその椅子によじ登った。
 不意に、のりが何かを思いついて手の平に握り拳の判子を押した。
「ああ! 三人で朝の散歩に出かけたのねッ。朝の空気は気持ちいいからぁ」
「違うわ」
 瞬く間に否定され、次の可能性を考えるのり。
 どうせ楽観的な考えしかしないだろう。そう思った真紅は、はっきりと教えてあげることにした。

「あの三人は自ら居場所を捨てたの。だから、もう食事の用意も前の人数分でいいわ」

 聞き間違えようのない返答に、のりはショックを受ける。頭の中は「なぜ」と「どうして」で埋め尽くされた。
「そんな……どうして……」
 当然のように漏れた言葉には、真紅でも即答できなかった。こんな事になり、真紅もかなり心を磨耗させているのだ。
「のり、紅茶をちょうだい」
 お茶を淹れさせて話をはぐらかした真紅は、黙々と朝食を摂る。静かすぎる食事では、紅茶の香りも感じられなかった。

 薔薇乙女が敵味方に二分した今、雛苺にはある懸念があった。
 それは、柏葉巴の事である。
 巴は悲しみで狂った水銀燈に命を狙われていた。その水銀燈は雛苺の敵になってしまっている。その事に思い至った雛苺は、寝ても覚めても胸騒ぎがして止まなかった。

 雛苺は一人遊びでも気が紛らわせそうになかったので、相談してみることにした。お絵かきのクレヨンを箱に戻す。
「ねえ、真紅ぅ……」
 翠星石は鞄で臥せっているので、ソファーで紅茶を飲む真紅を頼りにする。
 いつもの真紅なら、子供じみた雛苺の言うことをいちいち気にはしない。だが、今は姉妹の仲が危うい場面。些細な事も蔑ろにはできない。真紅は紅茶のカップを手に持ったソーサーに置き、しっかりと雛苺の方を見る。

「どうしたの?」
「あのね、ヒナね、トモエが心配なの」

 雛苺が真紅の目をじっと見つめる。真紅はそれだけで事情を飲み込めた。彼女もジュンのことで同じ不安を抱えているのだ。彼も水銀燈の標的の一人だった。

「わかったわ。今晩、巴の様子を見に行きましょう」
「うんっ」

 大きな声で返事をする雛苺。巴と会えることになり、やや元気を取り戻した。つい昨日見たはずなのに、雛苺の笑顔を久々に見たような気がした真紅だった。

 夕食を済ませ、もう寝るだけになった夜、真紅と雛苺は出掛ける前にジュンに尋ねた。

「ジュン、雛苺と巴の所へ出掛けるのだけど、貴方も来る?」

 今から、雛苺との約束で巴の所へ行くのだ。
 ジュンは重苦しい空気から逃げるように、机のパソコンに向かっていた。

「行かない」

 ジュンは液晶画面を見たまま返事をする。この時間から女の子の部屋に上がるのは抵抗があった。
 真紅としては、一緒に来てくれた方が何かとやりやすいのだが、それは無理そうだった。仕方無しに、閉じている鞄の前に歩み寄る。
「翠星石、話があるの。起きてちょうだい」
 固く閉じられた鞄から返事は無い。朝からこの調子だ。
 起きていると判断した真紅は、構わずに話を続ける。
「巴の所へ行ってくるわ。その間、ジュンをお願い」
 それだけ言うと、真紅は雛苺と鏡の部屋へと向かった。
 それを聞いていたジュンは複雑な気分だった。真紅ははっきりとは言わなかったが、翠星石にジュンの護衛を頼んでいたのは確実だ。
 確かに、ローゼンメイデンの得体の知れない力に人間は無力だ。それでも、ジュンは守られるしかない自分が情けなく思えて仕方が無かった。

 巴は自室の座卓で勉強に励んでいた。彼女は父親の言い付けで、今でも剣道を続けている。部活と受験を両立しなければならない彼女は、連日夜遅くまで机に向かっていた。
 背後の三面鏡が音も無くひとりでに開いた。別の世界との入り口と化した鏡は、眩しい光を放つ。
 驚いて筆を止めた巴は、反射的に背後を見る。眩しさに眼を細めていると、鏡台から人形のお客さんが訪れた。

「トモエ〜っ!」

 よほど嬉しかったのだろう。雛苺がお邪魔するなり巴に飛びついた。巴は可愛い来客の頭を撫でて微笑む。
 続けて赤いドレスの人形が鏡から抜け出てくる。

「こんな夜分にごめんなさい」

 畳に着地した真紅が、形だけでも失礼を詫びた。

 マウスのクリック音しかしない部屋で、ジュンは溜め息を吐く。そして、人形に命を奪われるかもしれないという今の状況に、思わず笑ってしまった。
 取り憑いている彼女達に恨みが無い、と言えば嘘になる。それでも、恨みを掻き消すには充分すぎるほどの物を彼女達から貰っていた。
 思い返せば、真紅が来る前の彼は、自身に失望して腐っていただけだった。今も完全に立ち直れたわけではないが、あの頃とは比べられないほど生きる気力に溢れている。薔薇乙女達との助け合い、ふれあいが彼を成長させた。

 そんな思いに耽っている時、静かだった部屋で物音がした。鞄が開いたのだ。この部屋に居るのは彼女しかいない。翠星石は鞄から出ると、服の皺を伸ばして消す。

「遅いお目覚めだな。もうすぐ寝る時間だぞ」

 少なからず心配していたジュンは、からかい半分で声を掛けた。これは翠星石が怒って罵声を返してくれるのを期待してなのだが、失敗に終わる。彼女は俯いて黙ってしまった。
 どう声を掛けたらいいか分からなくなったジュンは、中途半端な笑みを浮かべた。

「ジュン、言っておきたいことがあるです」

 突然、翠星石が真面目な顔で話を切り出した。ジュンは大事な話になりそうだと感じ、近い目線で話を聞くためにベッドに腰を下ろした。翠星石も促されたようにベッドに飛び乗った。
 隣に座った翠星石は、すぐには口を開かなかった。ジュンは彼女を気遣い、ただ隣で座って待つ。すると、彼女が床を見つめたまま話し始めた。

「このままだと、蒼星石は真紅と戦うことになるです」
「そうだな……」

 ジュンが頷いたことによって、翠星石は困難な現実を改めて実感した。蒼星石と真紅の衝突は避けられそうにないこの現実。彼女は膝で拳を固く握り、吐き出すように言った。

「駄目な妹を持って翠星石は泣きたい気分ですぅ。でも、あんなのでも私の大切な妹には変わりないのですぅ……っ!!」

 ジュンは全てを聞かなくても翠星石の言いたい事が解った。彼女は蒼星石とは戦えないと言いたいのだ。
 ジュンは翠星石のマスターなのと同時に、真紅のマスターでもある。翠星石は蒼星石との戦いで自分が当てにならない事を伝えたかった。

「無理に戦わなくてもいい。双子の姉妹だから仕方ないよ」
「それだけではないです……」

 快く承諾したにも関わらず、彼女の返事は優れない。これ以上、何があるのか。ジュンは不可解な顔をした。

「もし、蒼星石が危なくなったら、相手が真紅でも蒼星石の味方をするです」

 翠星石が敵になるかもしれない。そう取れる内容だが、ジュンは驚かなかった。妹が倒されるのを黙って見ているだけの翠星石なんか、好きになれそうになかった。それに、真紅がそこまで酷い事をするとも思えなかった。

「それでいいと思う」

 あっさりと賛成されたことに、翠星石は拍子抜けして唖然となる。かなりの覚悟をして話したのだ。
 ジュンの優しさに心を打たれた彼女は、緊張が解けたのも重なり、大粒の涙を零し始めた。その涙はいくら拭っても、次から次へと溢れて止まらない。

「大丈夫。なんとかなるさ」

 慰めの言葉をかけて彼女の頭にそっと手を置く。それが引き鉄になり、彼女は声を上げて泣き始めた。
 滅多に弱味を見せない彼女は、ジュンの目に新鮮に映った。彼女が泣き顔を気兼ね無しに見せるのは、蒼星石と真紅だけだ。
 ジュンはしがみつく翠星石が泣き止むまで、暖かい手で撫でてあげた。

----
 巴は甘える雛苺の相手をしながら、真紅から事情を聴いた。
 薔薇乙女のミーディアムが殺された事。それが元でアリスゲームが始まりそうな事。巴も巻き添えに遭うかもしれない事。
 実際に死人が出たと聞いた時、巴は我が耳を疑った。そして、惨劇の要因であろう目の前の人形に恐怖で腰が抜けそうになった。だが、そんな疑念も次第に薄まった。

「トモエ?」

 膝の上でご満悦の様子だった雛苺が巴を見上げる。その子供っぽい仕草からは、人の生き死にのような血生臭いものは少しも感じられない。
 巴は心配させないよう、にっこりと笑みを返し、膝から落ちないように抱えてあげた。

 穏やかな心休まる時間は長くは続かなかった。開いたままだった三面鏡が再び光を放つ。
 真紅は翠星石とジュンが来たのかと思ったが、それは彼女の希望にすぎなかった。 

「真紅、雛苺、こんばんは。柏葉さん、お邪魔するよ」

 律儀に挨拶をして現れたのは蒼星石だ。ここへ来た理由は訊くまでもない。真紅は正面に立ち、最後の説得に当たる。

「蒼星石、お願いだから考え直してちょうだい。私は誰とも……貴女とも戦いたくはないの」
「君のわがままは聞き飽きた。僕らはアリスを目指すローゼンメイデン。そろそろ君も本分に立ち返るべきだ」

 恨み言を言わず、毅然とした態度でアリスゲームの申し入れをする蒼星石。
 だが、真紅を見つめるその瞳の奥に、凄まじい怒りの炎が燃え上がっているのは明らかだ。生半可な説得に応じるようには見えない。

「真紅、場所を変えよう。柏葉さんに迷惑が掛かる」

 蒼星石が場所移動の提案をする。当然、これは戦いの場への移動だ。それが解っている真紅は動こうとしない。

「ここで始める気かい? 君がそう望むなら仕方がない」

 蒼星石は鋏を取り出して肩に担ぐ。身の丈ほどもある鋏は、充分に凶器になる。

「待って。場所を変えましょう……」

 今にも斬りかかろうと構えた時、ついに真紅も折れるしかなかった。
「雛苺はここにいなさい」
 巴のために雛苺は残し、二人は三面鏡へと消えていった。

 翠星石は驚くほど心が落ち着いているのを感じていた。ただベッドでジュンに寄りかかっているだけなのに、心の荒波がみるみる収まっていく。まるで快晴無風の内海のようだ。
 あまりに居心地が良くて彼から離れられない。もうとっくに涙は止まり、嗚咽で疲労した胸も、緩やかで深い呼吸を繰り返していた。
 翠星石はふと思った。やはり、この少年が私のマスターなのだ。少し頼りないけれど、私の心を感じてくれる、と。
 翠星石は全ての体重をジュンに預けた。

「見せ付けてくれるわねぇ」

 静かだった部屋にからかう声が飛び込む。この声は水銀燈だ。
 直後、机側のカーテンの裏から姿を現す。外から窓をすり抜けてきたようだ。

「随分と仲がいいのね。妬けちゃうわぁ」

 動けずにいた二人は、今もベッドで寄り添っていた。それを水銀燈が面白がって指摘する。翠星石は大急ぎで飛び上がってベッドに立つ。

「すすす、水銀燈、何しに来やがったですッ!」

 恥ずかしいところを見られた上に至福の時間を邪魔され、翠星石はのっけから嫌悪感を露にする。嫌われるのは慣れっこの水銀燈は、そんなのは気にもしない。

「決まってるでしょ? 真紅の馬鹿を倒すためによ」
「真紅なら今、出払ってるです。日を改めて来るといいです」

 真紅は巴の所へ行って留守中だ。翠星石はなんとか水銀燈を追い返そうとする。姉妹の中でも彼女とはやり合いたくない。どちらかが壊れるまで、戦いは終わらないだろう。

「知ってるわ、そんなこと。だから来たの」
「どういうことです?」

 やはりというか、水銀燈は甘くなかった。彼女は真紅が不在なのを承知で来たのだ。

「戦略の基本は物資の輸送路を抑える事。意味解るぅ?」
「まさか……」

 水銀燈は遊び半分で遠回しに目的を伝え、それを聞いた翠星石は顔色を悪くする。
 ドールの力は媒介であるミーディアムを通して送られる。彼女の言う輸送路とは、マスターを指す以外に無い。
 翠星石は青い顔で隣のジュンを見る。すると、水銀燈が嬉しそうに囃し立てた。

「御名答ぉ〜。私はその子に用があって来たの。だから、邪魔しないでくれるぅ?」
「ふざけるなです……!!」

 翠星石の肩が怒りで震える。水銀燈は友達の家に遊びに来たような感じでいるが、そんな生易しいものではない。彼女がジュンに用事だと来たからには、目的は一つ。彼を殺しに来たのだ。
 それを見過ごせるわけがない。ベッドから飛び降りた翠星石は、ジュンを守るように前へ出る。

「ジュンは私のマスターでもあるです。手出しはさせないですよッ」
「そんな人間ほっときなさいよ。今のあなたには、やるべき事があるでしょう?」
「今やるべき事は、ジュンを守る事ですぅッ!」
「本当にそうかしらぁ。急がないと手遅れになるかも……」

 水銀燈が意味ありげな言葉を繰り返す。翠星石が不安になりかけた時、ジュンに変化が起こった。

「熱ぅ……!」

 契約の指輪が熱を持って赤く光る。ドールに力を使われたのだ。それを見て水銀燈がほくそえむ。対して翠星石は焦りから顔を強張らせる。

「始まったようね」
「何がです?」
「解ってるんでしょう? アリスゲームが始まったのよ。さっきね、あなたの蒼星石が真紅の所へ向かうのを見たわ」

 水銀燈がアリスゲームの開始を告げる。おまけに、蒼星石の行動までご丁寧に教えてくれた。
 翠星石の心が激しく揺れる。今すぐにでも蒼星石を止めに行きたい。しかし、ジュンを見捨てることはできない。
 ジュンも表面には出さないが、恐怖でかなり怯えていた。翠星石が妹を選んだら、ほぼ間違いなく命は無い。「僕を守れ」と叫びたかったが、わずかに残された自尊心がそれをさせなかった。

「早く妹の所へ行ってあげなさいよ」

 水銀燈が急かす度、ジュンに嫌な寒気が走る。迷って黙りこくっている翠星石が怖くて堪らない。そして、悩んだ彼女が選択する。

「翠星石は……ここを動かないです! マスターを裏切ったりしたら、それこそ蒼星石に合わす顔がなくなるですッ!」

 一度答えが出れば、迷った自分が恥ずかしく思えるほど簡単なことだった。ジュンを見殺しにしても、マスターのために仲を違えた蒼星石が許してくれるはずがない。
 もっとも、ジュンを選んだ理由はこれだけではないのだが、翠星石にとってはこれが一番簡単に納得できるものだった。

「残念だわぁ。それじゃあ、まとめてジャンクにしてあげる!」

 水銀燈が黒い翼を大きく広げる。それは、口先だけの駆け引きの終わりを意味していた。

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 見渡す限りの大草原を二つの影が疾走する。
 ここはnのフィールド。
 邪魔する者は誰もなく、アリスゲームをするには最適な場所。
 現実世界では夜だったが、ここではよく晴れた空に陽が高く昇っている。時刻も現実とは関係ない。
 追いかける蒼い影が鋏を振り回して言う。

「どうして反撃しないのさ。ここだと、いつまでも逃げてられないよ?」

 鋏が紅い影をかすめ、草がきれいに刈り取られていく。
 真紅はただ逃げ回っていた。何度も鋏で斬られそうになっても反撃しなかった。
 いや、正確には反撃できなかった。水銀燈の件以来、戦うのが怖くなっていたのだ。
 戦えば誰かを失う。そんな言葉が呪詛のように真紅を縛る。

 しかし、そんな悠長なことを言っている場合ではない。身を隠す物もないこのフィールドでは、戦う以外に生き残る術は無い。
 先程からも何度も鋏が獲物を捕らえかけ、その度に彼女は身を守るために力を振るう。
 このままだと、そう時間の掛からない内に勝敗が決するだろう。当然、負けるのは真紅だ。

 やがて、その時はやってくる。
 細長い草に足を取られた真紅が、草の布団に倒れ伏した。すぐ後ろを追っていた蒼星石は、余裕をもって追い詰める。真紅は恐怖で引き攣った顔で背後の蒼星石を見上げる。

「だから言ったじゃないか。逃げられないって」

 蒼星石はその無様な姿を哀れむように見下ろす。しかし、手に持った鋏は無情にも、その切っ先を真紅に向ける。両手でしっかりと持ち、真紅の背中に狙いを定める。

「や、やめて……ッ!!」

 恥も外聞もなく、必死の形相で命乞いをする真紅。死が現実になるのを目前にして、思考が白紙に戻りつつあった。
 蒼星石はそんなのはお構いなしに、鋏を力一杯突き刺そうと上に持ち上げる。反動で下に突き落とした時、真紅はあらん限りの声で絶叫した。

「いやぁああああああああッ!!」

 その瞬間、一時的に真紅の価値観が入れ換わる。
 最も恐ろしいのは失うこと。これまでの記憶を失うこと。今の存在を失うこと。これからの時間を失うこと。
 真紅の頭は生存本能によって支配される。今の彼女は自分のためだけに生きていた。

 赤い花びらが球状に集まって盾になり、刃先を完璧に受け止めた。庭師の鋏を凌ぐその硬さは異常なほどだ。

「な……真紅ッ、君は――」

 膨大な力が真紅を中心に溢れ出し、蒼星石はその力の奔流に呑み込まれた。

「クッ、熱……ッ!!」

 ジュンが指輪を押さえてうずくまる。指輪は激しい熱を発し、彼から力をどんどん奪い取った。

「ふふっ、真紅はかなり苦戦しているようね」

 したり顔でジュンの様子を説明する水銀燈。翠星石は真紅とミーディアムを共用している。真紅に力を使われれば使われるほど水銀燈は優位に立てる。

 翠星石と水銀燈も戦いの場をnのフィールドに移していた。ジュンは水銀燈を物置の鏡から誘導したのだ。また家を破壊されては敵わない。
 舞台は無人の学校。ジュンの苦手意識が誘い込んだのか、そこは通っていた中学校と同じ造りの体育館だった。

 そして、水銀燈が口の端を更に大きく吊り上げる。期待以上の好機が訪れたのだ。ジュンは立ち上がるどころか、硬い床に寝てしまう。力が使われすぎたのだ。翠星石が心配になって駆け寄った。
「ジュンっ!」
「僕のことより、お前は水銀燈をどうにかしろ……!」
 ここで寝ていても水銀燈は倒せない。ジュンは力の入らない腕で懸命に起き上がろうとする。その光景は、産卵を終えて死ぬだけの鮭がもがいているようだ。そこに水銀燈が茶々を入れる。

「強がりはよしたらぁ。何人も喰い殺してきた私には判る。あなた、もう死ぬ寸前なのよ?」

 人間を便利な道具としか思っていなかった水銀燈は、力の加減をしてこなかった。だから、彼女は人間の限界を知っている。
 翠星石がはっと目を見開いてジュンに視線を戻す。彼の顔からは血の気が引け、まるで生気を感じない。

「私が手を下すまでもなかったかしらぁ。真紅もとんだお間抜けさんだわぁ」

 水銀燈の勝ち誇った高笑いが館内に響いた。
「だったら、さっさと消えやがれですッ!! 用は済んだですよッ!!」
 マスターの死を目前にし、翠星石が怒鳴る。その目尻には涙が揺れていた。
「イヤよ。私は坊やの死ぬ所が見たいんだからぁ」
 彼女らしい陰湿な理由が返ってきた。もう時間が無いというのに、見逃してくれる様子は無い。
 こうしてる間にも、ジュンの足掻きが目に見えて弱々しくなっている。もう、寝返りを打つのがやっとだ。

 後の無くなった翠星石は、水銀燈を倒す方法を一つ考える。確実とまではいかないが、できる限り早く決着をつけるには有効な手段だった。しかし、それは並大抵の覚悟で実行できるものではなかった。
 それでも、彼女は迷わず決断する。
 今ならはっきり言える。ジュンより大切なものは無い。
 人見知りの激しい彼女でも、彼とは出会ってすぐに悪口を言い合えた。寝込みを狙って顔を観察したりした。今思えば、彼女は最初から彼を意識していたのかもしれない。

「ジュンは死なせないです」
「へぇ〜、どうするつもりぃ?」
「こうするです!」

 如雨露を自分の足下に向けて振ると、体育館の床から植物の蔓が束になって伸びてきた。翠星石はその蔓の束を足場にし、乗り物の代わりにする。
 蔓は尋常でないスピードで水銀燈に向かって伸びる。避ける間も与えず、翠星石は水銀燈の体を掴まえた。
 蔓が翠星石もろ共、体育館の分厚い壁に水銀燈を叩き付ける。
「かはっ!」
 背中からまともに打撃を喰らった水銀燈は、叫び声が出ない代わりに空気を吐き出す。
 水銀燈ほどとはいかなくても、一緒に壁に激突した翠星石も相当のダメージを受けていた。まさに捨て身の攻撃だ。
 思い切った行動に驚く水銀燈を尻目に、翠星石が痛みを堪えて仕上げにかかる。

「今ですッ、スィドリーム!!」

 名を呼ばれた人工精霊が物凄い勢いで迫ってくる。巨大なエネルギーの塊となったそれは、確実に彼女達を捉えていた。

「あなた、自分も死ぬつもりッ!?」

 攻撃の意図を知った水銀燈は焦って、今も密着する翠星石を怒鳴り散らす。明らかにこれは道連れを狙った攻撃だ。
 壊れてしまったらアリスにはなれない。アリスゲームを無視したこの戦法は、水銀燈の予測を超えていた。
 焦ったのはジュンも同じだ。彼の命が危ないとはいえ、こんな方法を望む訳が無い。出ない声を必死に絞り出す。

「やめろッ、翠星石ぃいいいいい……ッ!!」

 轟音を立てて壁に大穴が開く。ジュンの叫びも、空しく大音響に塗り潰された。

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 側面に穴の開いた体育館の中、ジュンは翠星石を捜していた。
 爆発の光に消える瞬間、確かに彼女はジュンを見ていた。淋しそうな、それでいて、彼を見守るような暖かな瞳をしていた。そのなんとも言えない表情が、ジュンの頭から離れない。
 瓦礫が散乱する館内を見回すが、彼女の姿は見えない。もっとよく捜したくても、未だに体は思うように動かない。まだ弱り続けているのか、起き上がることさえできなかった。
 それでも諦めずに捜していたジュンは、動いている物を見つけた。それは、壁の大穴から入ってきた。

「ジュン……」

 弱々しいが、翠星石の声だ。ジュンは嬉しさのあまり、体が苦しいのも忘れるほどだった。
 だが、すぐに様子がおかしいことに気付く。彼女が近づいて来るのに時間が掛かりすぎているのだ。
 目を凝らした彼は理由を知る。彼女は両腕で這って来ているのだ。おそらく、足を悪くしたのだろう。こちらから近づいてやれない彼は、せめてもと声を掛ける。

「翠星石ッ」
「ジュン……!!」

 声を聞いた翠星石は、それに応えるよう必死になって這う。建材の破片で傷付きながらも真っ直ぐジュンへと向かう。
 やっとの思いで辿り着いた翠星石は、すぐにジュンを助けようとした。

「ジュン、指輪を見せるです。まだ間に合うかもしれないです」

 瀕死のジュンは応えない。いや、腕くらいは動かせたが応えられない。彼はある一点から目が離せられないでいた。
 それは、彼女のぼろぼろになったスカートの部分。盛り上がっているはずのスカートの布地が、床にぺったりとくっついていた。

「おまえ、足……」

 ジュンは怖くて曖昧にしか訊けなかった。しかし、翠星石は笑って答える。

「あ、これですか? 腰から下が見事に吹っ飛んでしまったです。でも、水銀燈を倒した代償がこれだけなら大成功ですぅ」

 軽々と言っているが、下半身を全部失ったのだ。人間なら即死していてもおかしくはない。
 だが、人形だからと言っても彼女はローゼンメイデン、生きている人形。笑顔も次第に痛みで歪む。やはり、無理をしていた。
 何とも言えなくなったジュンは、彼女の健気さで胸が一杯になる。彼を心配させないよう、明るく振舞っているだけなのだ。
 気まずくなりそうだったので、ジュンは話を元に戻す。言われたとおり、左腕を床に伸ばして指輪を見せる。

「これでいいか?」

 しばらくの間、出された指輪を見つめる翠星石。
 そして、ゆっくりと指輪に顔を寄せ、長い口付けをする。閉じた瞳から、涙の雫が流れ落ちる。
 涙に驚いているのも束の間、ジュンは少しずつだが体に力が戻り始めたのを感じた。指輪を通して、熱いものが体の中心へと流れ込んでくる。
 名残惜しむように唇を離した翠星石が閉じていた瞼を上げた。

「ミーディアムの契約を破棄したです。あと、私の力もおまけで付けてやったですよ。ありがたく受け取りやがれですぅ」

 マスターの指輪への口付けは、契約解除の儀式だった。勝手に契約を取り消され、ジュンは唖然となる。口では迷惑がっていても、彼女達との繋がりに愛着があったのだ。
 だが、これだけでは終わらない。まだまだジュンの衝撃は続く。

「最後のマスターがジュンで、翠星石は幸せだったですよ」
「お前、何を言って――」

 これではまるでお別れの言葉だ。認めたくないジュンは慌てて起き上がって言葉を遮る。鈍い動作だが、動けるまでは回復していた。
 しかし、済んでしまった事は、どうやっても変わらない。立てない翠星石は仰向けになってジュンを見る。

「ジュン、さよならです。私は水銀燈と一緒に壊れてたですよ。とっくに限界は超えてたです……」
「でも、生きてるじゃないかっ」
「そうですね。まだこうやってジュンと話せているのが不思議なくらいですぅ」

 翠星石の言うように、体の破損具合から見ても、とうに動けなくなっているのが自然だった。
 すでに壊れていた翠星石を動かしたのは何か。それは、ジュンを救いたいという意思の強さに他ならない。這ってでもジュンの元に戻ってきた姿に、その執念が垣間見える。

 まだ翠星石に生きて欲しいジュンは、彼女が諦めた感じで話すのに苛立ちを覚えた。つい、声が大きくなってしまう。

「そんな言い方はよせ! 蒼星石は心配じゃないのか? 早く助けに行ってあげろよ」
「この足では無理ですぅ」

 死を言い聞かせようと、翠星石は悲しそうに笑う。指輪を失い、残った力もジュンに授けた。あとは永い眠りを待つのみだ。

「足なら直るさ。真紅の腕だって直ったじゃないか」
「ありがとう、ジュン。最後だから言いますけど、翠星石は前からジュンのことが好きだったですよ。悪口ばかり言ってすまなかったです」
「こんな時にやめろよっ!」

 死に際に想いを打ち明けられても、そんな気分にはなれない。若いジュンなら尚の事だ。

 疲れてきたのか、翠星石の声がだんだん小さくなっていく。体の痛みも薄らいでいく。
 死期を悟った彼女は最後のお願いをする。

「ジュン、抱っこして欲しいですぅ」

 ジュンは両脇の下を持って抱き上げる。支えてあげるお尻も無いのだ。そして、小さくなってしまった彼女を胸でしっかり包み込む。小さな赤ん坊を扱うように……。
 ジュンの体温で包まれた彼女は幸福を感じた。しかし、同時にそれ以上の不幸も感じた。ようやく素直になれたのに、この幸福もあと数えるほどの時間で終わってしまう。
 やるせない感情の波に襲われた彼女は、気丈に振る舞えるのもここまでだった。大粒の涙が止め処なく零れ、泣き言を吐く。

「こんなの嫌ですぅ……。もっとジュンとおはなししたいですぅ」
「うん、いっぱい話そう」
「毎日、抱っこしてほしいですぅ」
「それくらい、してやるよ」
「ジュンと一緒にいたいですぅ……!!」
「そうだよ。ずっと一緒にいようっ」

 ジュンも懸命になって励まそうとする。
 しかし、確実な終わりを理解している翠星石には、残酷な言葉でもあった。

「ジュン、ジュン、ジュン……ジュン……」

 名前しか言わなくなった彼女の声が、途切れ途切れになっていく。
 ジュンも彼女の名を繰り返し呼んで、必死に命を繋ぎ留めようとする。
 しかし、彼女のか細い声が消えた時、命の糸もぷつりと切れた。
 小さな体が光りだし、胸から輝く魂が抜け出てくる。ローザミスティカだ。
 ジュンの目の前で停滞する魂は、彼に受け取って欲しいと訴えているようだった。

 腕の中の翠星石は微動だにしない。つい今しがたまで、この人形と話をしていたのが嘘のようだ。
 片手で亡骸を抱いたジュンは、その魂にそっと手を差し伸べる。
 包むように掴んだ後、彼はその場で泣き崩れた。

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 真紅が正気に戻った時、すでに勝敗は決していた。草で覆われていたはずの大地が土を剥き出しにし、辺りは荒野と化している。
 惨状に唖然としながら見渡すが、蒼星石の姿は見当たらない。跡形もなく消えたのか、または生き延びて逃げたのか。そんな考えを漠然としている最中、もっと重要な事に思い当たった。

「――ジュンは!?」

 やっとそこに思い至った真紅は、再び周りを見て青くなる。この変わり果てた光景を作るのに、どれだけの力が使われたのだろうか。考えなくてもジュンの苦しむ姿が容易に想像できる。
 真紅は急いで世界の出口へと向かった。

 真紅の去った世界で、彼女は草原に寝そべり、独り空を眺めていた。青い空に筋状の雲が流れる。
 トレードマークのシルクハットはどこかへ飛び、服はメチャクチャに破れている。
 蒼星石は好きで寝転がっている訳ではなかった。もう、立ち上がる力も残っていないのだ。真紅のでたらめな力の放出をまともにくらい、こうして生き延びるのがやっとだった。

 アリスゲームに敗れ、復讐も果たせなかった。
 全てを失くした彼女の心は、いっそこの青空のように晴れやかでもあった。

 ふと、蒼星石は足音に気付く。
 相手が真紅だとばかり思っていた彼女は、無警戒に見向きもしない。力を使い果たした彼女は、首を動かすのも億劫だった。
 足音は彼女の少し手前で止まった。

「僕の負けだ。ローザミスティカをあげるよ」

 返事は無い。
 だが、蒼星石は不審に思わない。このみすぼらしい姿に真紅が驚いているだけだと考えた。

「でも、この戦い方は感心しないな。マスターの負担が大きすぎる。ジュン君、大丈夫だろうか……」
「私に言われても困ります」
「――真紅じゃない!?」

 真紅とは違う声に、はっとなって相手を確認する。
 しかし、顔を見た瞬間、体が地面から突き上げられた。全てが一瞬の出来事で、蒼星石の思考は危険な現状ではなく、相手の確認をそのまま続ける。
 一呼吸置いて、蒼星石は自身に起こったおかしな変化に気付いた。
 青い空が近くに見える。そして、先の尖った水晶の結晶が一本、胴体から伸びている。
 蒼星石は天に向かって串刺しにされたのを知った。

「ローザミスティカは喜んで頂きましょう」

 もう、蒼星石に抗う力は残されていなかった。体が青い空に溶け込むように軽くなる。それは、ローザミスティカが抜け出る感覚だった。
 輝く命が眼帯の少女の手に舞い降りる。蒼星石の魂は、薔薇水晶によって受け継がれた。

 主人の安否をいち早く確かめたかった真紅は、直接nのフィールドから鏡の部屋に出た。
 二階に駆け上がった彼女は、人影が見えないことに狼狽する。慌てて開いた翠星石の鞄も空っぽ。ジュンはまだnのフィールドから帰っていなかった。
 すぐに捜そうとした真紅だが、闇雲に捜しても無駄なことは明らかだった。翠星石も一緒だとしたら、別の世界に居ると考えていい。
 無数にある世界を捜して回るのは現実的ではない。捜すにしても、一人より二人がいい。
 真紅は置いてきた雛苺を拾いに向かった。

 雛苺は巴の膝に座って眠っていた。巴は優しく抱え、寝顔を見ながら髪を撫でる。
 そこへ真紅が鏡から現れた。急いでいる彼女は、寝こけている家来を見るなり叩き起こす。

「起きなさい、雛苺。寝ている場合ではないわ」

 雛苺は目を覚まさない。巴も撫でる手を止めない。
「早く起きなさい!」
 声を張り上げても起きる気配はない。それでも、急いでいる真紅は、おかしい事に気付かなかった。

「もう、雛苺は起きないそうよ……」

 巴が撫でながらそう言った。
 瞬時にその意味を悟った真紅は、気勢を無くして立ち尽くす。永遠の眠りは死と同じ……。
 それはきれいな寝顔だった。衣服に綻びは見えず、髪も整っている。目を開けても不思議ではないくらいだ。
 だが、もう目は覚まさない。

 真紅は事の顛末を聞いた。
 これをやったのは金糸雀だった。巴が「バイオリンを持っている子」と言ったので間違いない。バイオリンは彼女の武器だ。ただの楽器ではない。

 金糸雀がアリスゲームを申し込み、雛苺はそれを受けるしかなかった。あの場面で彼女が頼れたのは巴だけ。しかし、巴はもうミーディアムでも何でもない。巻き込む訳にはいかない。
 巴は三面鏡へと消えいく雛苺を止められなかった。あの泣き虫で我侭だった少女が、助けを求めずに戦おうとしたのだ。その決意を無駄にできなかった。

 結末までの流れは速かった。
 鏡に消えてすぐ、二人は戻ってきた。行く前と違っていたのは、雛苺が金糸雀に背負われていた事だけ。
 雛苺を巴に預けた彼女はこう言った。

「この子はアリスゲームで負けたわ。もうただのお人形になったけど、可愛がってくれないかしら。きっと喜ぶと思うの……」

 金糸雀は勝者とは思えない沈んだ表情で言った。やはり、姉妹を手に掛けるのは辛かったのだ。
 巴は今は動かない人形を抱き締めて、金糸雀が去るのを見ているしかなかった。

 真紅は雛苺を巴に託して、一人で引き返した。そして、雛苺の死を悲しむ間もなく、立て続けに不幸に襲われる。
 部屋に戻った真紅は、まずジュンを見つけてほっとする。別の世界から帰って来ていた彼は、ベッドを椅子の代わりにしていた。

「ジュン! 無事だったのね」

 そう言ってしまってすぐ、彼女は気付く。ジュンの手に、翠色のドレスを着た人形があるのを。
 ジュンは泣き腫らした顔で、ただただ、その人形と見つめ合っていた。
 翠星石はされるままに目を閉じていた。服はあちこち破れ、薔薇乙女の気品は見る影も無い。
 それを見た真紅は、嫌でも理解するしかなかった。彼女も遠くに行ってしまったのだと……。

 話したい事が山ほどあった真紅だが、こうまで悲惨な現状に、彼に掛ける言葉も見つからなかった。
 沈黙に覆われようとした時、ジュンがぼそりと口を開く。

「僕を守ろうとしたんだ。こんなになってまでして」
「そう……」

 真紅は頷いて応えてあげるだけで精一杯だった。このような結果になってしまった要因が、真紅は己の不甲斐なさにあるようにしか思えなかった。
 蒼星石との戦いで、彼女は愚かにも、マスターの力を独り占めにしてしまったのだ。同じマスターを持つ翠星石の足を引っ張ったのは明白。当然、雛苺の足も……。

 だが、黙ってしまうしかなかった真紅の対応が、この場では結果的に正解になった。ジュンは彼女に頷いてもらえただけでよかった。それ以上の慰めの言葉は嘘臭くなるだけだ。
 再び静寂に覆われた中、ジュンがぽつぽつと翠星石の戦いを語る。
 その中で、真紅は水銀燈も倒れたと聞かされる。
 水銀燈の生死は判らず仕舞いのままだったが、彼は翠星石の言葉を信じたのだろう。翠星石だけ消えていくのが、我慢できなかったのかもしれない。

 丁度、部屋のデジタル時計の数字が○だけで揃い、日付が変わる。この時刻なら、就寝前の人も少なくないだろう。あれだけの出来事があっても、まだ夜は深まっていくのだった。

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