病院。 
 その中庭は、昼日中だというのに意外なほどに静かだ。 
 だが、水銀燈はそれが気に入っていた。 
 誰もいない。 
 誰も。 
 自分と自分を造った父親。 
 それ以外は全て拒絶している、そう思っている彼女は、それが気に入っている。 
 そんな空気が好きだった。 

 最も。 

「天使がァァァっ!! 天使がクルぅぅぅっっ!」 
 少し離れた病棟から、今日も悲鳴が聞こえる。 
「落ち着いてめぐちゃん!」 
「鎮静剤! いえ、麻酔銃持ってきて!」 
「先生! 先生ーーー!」 
 ガシャーン! 
 花瓶か何かが割れる音。 
「……」 
 いつもの事とは言え、時折風と一緒に呪詛が流れてくる事がある。 
 それがこの場所唯一の欠点といえば欠点だ。 
 それでも、小さいながらも緑多いこの中庭の風景は好きだった。 
 だが。 
 今日の水銀燈には、どうにもあれが我慢できない。 
「五月蠅いわぁ…」 
 水銀燈は黒い羽を広げて空へ舞った。 
 最悪の事態が待ち受ける、抜ける様に涼やかな空へ。 

 どれくらい空を飛んだのだろう。 
 時折鳶が併走してくる以外は何事もなく、飛ぶのにも飽きた水銀燈は眼下に緑を見つけ、そこに降りる。 
 そこは公園だった。 
 人影はなく、ひっそりとした場所。 
 どこか病院の中庭に似ている光景に水銀燈は安心感を覚える。 
 ここはあくまでも見知らぬ場所。 
 人目を避けるため、茂みの奥の芝生に腰を下ろす。 
 一息ついた時、不意に茂みの中から猫の鳴き声が聞こえた。 

 水銀燈はびくりと身を強ばらせるが、何の変哲もない三毛猫と確認して胸をなで下ろす。 
「…殺されたいのぉ。人を脅かすもんじゃなわよぉ」 
 先ほどの自分も忘れ、凄みを効かせる水銀燈。 
 だが三毛猫は、そんな水銀燈にずんずんと近寄る。 
「な、なによぉ」 
 愛らしい外見とはいえ、人形である水銀燈から見ればそれは、人で言うところの虎かそれ以上の大きさ。 
 その瞳は攻撃的なそれだが、体は完全に腰を引かせていた。 
 三毛猫はにじり下がる水銀燈にずんずんと近づくと、そのまま体をすり寄らせ、くっついてしまう。 
 大きな顔が目の前に迫り、たまらず身をすくめて目を閉じる。 
 と、三毛猫は水銀燈の顔、髪、そして背中の羽に鼻をくっつけ、ふんふんとその香りをかいでいる。 
 なにやら水銀燈の香りが気に入った様子。 
 害を加える気はないと見た水銀燈は胸をなで下ろしながら再び悪態をつく。 
「あたしは鳥じゃないわよぉ。噛もうとなんかしたら承知しないから」 
 そう言いつつも、夢中で香りをかぎながらぐりぐりと身をすり寄せてくる三毛猫をなでる手は優しげ。 
 香りを嗅ぐのを満喫したのか、三毛猫はそのまま水銀燈の背中で腰を下ろし、彼女をくるむように丸くなってしまう。 
「しょうがないわねぇ」 
 何をする予定がある訳でもない。 
 水銀燈は猫をソファーがわりにして落ち着いてしまった。 
「……」 
 静かな時間。 
 だが、そうなると再び頭にあの問題が沸々とわき上がってきた。 
 別にめぐの事ではない。 
 最近、頭の中から寝ても覚めても離れないあるやっかいな問題だ。 
「…なんで…」 
 細い指に力が込められ、握りしめた手が、ぶちぶちと芝生を引きちぎる。 
「なんで…なんであたしよりあいつらの方が可愛がられるのよぉっ!」 
 芝生がぶちぶちと宙に舞う。 
「あたしだって、ちょっと他のドールと比べれば大人っぽいかもしれないけど、十分可愛いじゃない!」 
 子供がだだをこねるようにして両手を振り回し、芝生は止めどなく宙に舞い続けた。 
 三毛猫は突然のヒステリーにも驚く風はなく、顔にかかる芝生を払うだけだ。 
「あの子達が紅茶でケーキ食べている時、あたしなんてせいぜいお見舞いの林檎や葡萄が関の山で、 
 飲み物なんてヤクルトか缶ジュースだし! 夕飯だってあの子達、はなまるハンバークなんてすごいもの 
 食べているらしいじゃない! あたしなんて! この前なんか病院の社食で焼きそばよぉっ! たまにはみんなと…」 
 言いかけ、我に返り、その先の言葉をあわてて飲み込む。 
「……」 
 言ってはいけない。 
 言えない。 
 水銀燈はぐっと唇をかんだ。 
 自らが舞いあげ、そしてはらはらと舞い落ちる芝生にまみれたままの数分後。 

 体中を芝生だらけにした水銀燈はようやく落ち着き、浅い呼吸で息を整えていた。 
「…落ち着きなさぁい、水銀燈。アリスに最も相応しいドールたるもの、こういう事こそ理知的に考えなくてはいけないわぁ」 
 三毛猫の頭をなでつつ自分に言い聞かせ、水銀燈は静かに目を閉じ、そして深呼吸する。 
 ひとつ、ふたつと胸が小さく上下し、そして、ゆっくりと開いたその瞳はいつもの彼女だった。 
「そうよ、いくらあたしが姉であり優れているとしても、後から作られた妹達が何も勝っていないという事は無いわ。 
 そうでなくてはお父様が新しいドールを作る意味なんて無いものぉ…」 
 水銀燈はもう一度瞳を閉じ、普段は考えないようにしている妹達の事を細かく思い出す。 
「あの子は…確か…」 
 水銀燈は立ち上がり、芝を払ってからすう、と一呼吸する。 
 閉じた瞳を稟、と開くと、その口が開いた。 
「くんくんは天才よ。ジュン、紅茶を煎れなさい」 
 すこし胸を張り、威厳たっぷりの様相できっぱりと言う。 
「…いまいちかしらぁ。やっぱり個性が強い子じゃないとぉ。それなら…」 
 突然、水銀燈は両手を胸の前で猫の手のようにくるりと丸める。 
「で、確か…いつもこんな風に…」 
 水銀燈は足を内股にし、ふりふりといきなり尻を振り始める。 
 そして。 
「うにゅーたべたぁーーーい! うにゅー! うにゅーたべたあーーーい! うにゅーじゃなきゃいーやーなーのー!」 
 腰をふりふりと揺らしながら、ハの字眉でだだをこねた甘い声を出す。 
 彼女としてはせいいっぱいトーンをあげた声が空にこだまする。 
 こだまがそらに消えた頃、雛銀燈はふっと我に返る。 
「…ふふん、悪くないじゃなぁい」 
 その表情は、恥ずかしがると言うよりことのほか満足げだった。 
「あんたもそう思うでしょう?」 
 三毛猫は突然の乱心に目を見張りながらも、とりあえずにゃあ、と鳴いた。 
「そうよねぇ。やっぱりおばかさんは特徴をつかみやすいわぁ。それなら…」 
 思いがけずノッてきている水銀燈は、今度は急にスカートの裾を足に挟み、ぱんぱんにふくらんだパンツの様にスカートをたくし上げ、膝のあたりで固定する。 
 更にヘッドドレスをずらしておでこを出し、再びだだっこポーズを取った。 
 そして。 
「卵焼きぃ、たべたいかしらーーー!」 
 再び甲高い声が空にこだまする。 
「……」 
 ちらりと三毛猫を見る。 
 じっとこちらを見ている二つの瞳。 
 にゃあ、とそれは鳴いた。 
 水銀燈はふふん、と微笑む。 
「うん、そうよねぇ。いいじゃなぁかしらぁ。さすがあたしは、なにをやっても飲み込みがはやいかしらぁ」 

 気分良さげに微笑む水銀燈。 
 新しい世界の到来に心が躍る。 
「ぎんちゃんってばー、たぁまぁごぉやぁきぃーーーーっ! たべたいかしらーーーーーーっ!」 
 空に声がこだまする。 
「かしらーーーーっ!」 
 ついでに一声。絶好調だ。 
「…ふふ、やっぱりあたし、なんでも出来るじゃない。クールなだけじゃなくってキュートな仕草だっ…」 
 そのとき、水銀燈は背中に突き刺さる異質な視線、そして鉄の臭い、紛れもない血の臭いを感じた。 
「!」 
 背筋が凍り付きそうになるが、それでも彼女は本能的に戦闘モードへ移る。 
 羽を広げ、飛び退きながら後ろを振り向いた。 
 三毛猫もさすがに何事かと飛び退き、茂みの中へ待避してしまう。 
「誰っ!」 
 氷の様に鋭く、そして炎の様に熱い視線の先に居るは魑魅魍魎か、地獄の悪鬼かと思われた。 
 だが。 
「…え?」 
 その視線の先にあるのは、銀色のボディと輝くレンズの超接近図であった。 
「…カメラぁ?」 
 思わず力が抜ける。 
 そんな自分の様子がレンズに反射していた。 
 そして耳には、何故か異様に荒い呼吸音。 
 水銀燈はカメラのレンズの先を見る。 
「な…」 
 思わず呆けた声が出る。 
 そこには、金糸雀のミーディアム、みっちゃんが、匍匐前進の格好で息を荒げつつ、デジカメを構えていたのである。 
「に、人間?」 
 カメラに隠れているがその顔をよく見ると、鼻の下から芝生に向けて一筋の赤い糸が流れ続けている。 
「…あんた…」 
 血の臭い。 
 それは紛れもなく、みっちゃんの鼻血だった。 
「いい…」 
 みっちゃんがつぶやく。 
「え?」 
「いいわ…すっっっっっごくいいわ…」 
「…頭、大丈夫ぅ?」 
 訳が分からない、と首をかしげていた水銀燈がはっと気付く。 
「! …あ、あんた! まさ、まさかさっきのあた…!」 
 言い終わらぬうちにみっちゃんが、地球よ割れろと言わんばかりの勢いで両の手を大地に叩き付ける。 
 思わずびくりと身をすくませる水銀燈。 

「すてきだったわ…! 素敵! 素敵よぉ! ブラボーよ! グゥレイトよ! エクセレンツ! マーヴェラス! 
 スパシーボ! ダンケシェーよ!」 
 両の手をばんばんと地面に叩き付けるその仕草は、まるで大地を叩き割ろうとでもしているかの如き勢い。 
 訳の分からない単語も混じっているが、みっちゃんの恍惚とした表情と滝のように流れ落ちている鼻血を見れば、 
 とにかく感動している事だけは分かった。 
 だが、水銀燈は最初こそ真っ赤に顔を紅葉させていたが、それを見られていたと気付くと、途端に顔を真っ青に青ざめさせてゆく。 
「に、人間! そのカメラどうする気!? フィルムよこしなさい!」 
「あら、これはデジカメだからフィルムは入っていないわ。1ギガバイトの大容量SDカードよ」 

「そんな事どうでもいいわ! それをよこしなさいって言っているのよ! それとも、あたしを脅す気? 命が要らないの?」 
「そんなぁ、わたしはただ、空を飛ぶあなたを偶然見つけて、それでカナの言っていたもう一人のローゼンメイデン 
 だって思って、それでこうして…」 
 よく見るとみっちゃんは制服を着ている。 
 会社の昼休みだったのだろう。 
 身振り手振りで話し、そして改めて手に持っていたデジカメを水銀燈に向けて構えるみっちゃん。 
「やめなさいよぉ! と…とにかくそれをよこし…。い、今なら何もしないで帰してあげ…」 
 別の意味で鬼気迫る迫力に何故か押され気味の水銀燈。 
 やけくそで羽を広げ、臨戦態勢を強めたその時。 
『ぎんちゃんってばー、たぁまぁごぉやぁきぃーーーーっ! たべたいかしらーーーーーーっ!』 
 不意に、デジカメから聞き覚えのある声が聞こえる。 
「!!!!」 
 心臓が止まるかと思った。 
 一時遅れて、水銀燈が再び顔を真っ赤に燃える。 
「かわいい…かわいい…わぁ…」 
 みっちゃんはうっとりとデジカメのモニターを見て、鼻血に加えてよだれを垂らしている。 
 脱水症状を起こしかねない量だ。 
「ななな、なんでそんな…!」 
「うふふ、デジカメだから動画だってばっちりなのよ。640×320の30フレームだからとっても滑らかだし…。 
 ああ、これはもう家宝かしら…。ローゼンメイデンのこんなきゃわいい仕草を動画で残せるなんて…」 
「に、ににに、人、人間っ! いますぐそれをよこしないさい! でないと、ここで殺すわ! 殺すっ!」 
 言っている事は怖いが、青ざめたりまっかになりながら慌てふためくその姿は、恐怖よりも微笑ましさが先に出る。 
「え? 殺す?」 
 みっちゃんはとぼけた風に問うた。 
「そ、そうよ! あんたなんて簡単に殺せるのよ! 分かったらさっさとよこしなさい! そうすれば命…」 

「でもぉ、この映像、もう送っちゃったし…」 
「え?」 
「通信機能ついているから、撮ったデータは全部リアルタイムで送っちゃった」 
「…え?」 
「つまり、もうこのカメラ壊されてもデータは安全なの。別のところにいっちゃったのよ。ごめんね」 
「う、嘘よ…」 
「ううん、もうデータは私のマシンにばっちり収まっているし、もしも私に何かあったら全世界に転送される様にプログラムされているのよ」 
「…うそぉ!?」 
 そんなシステムはありえないが、その辺には疎い水銀燈。 
 あまりの饒舌な説明に、『ぱそこん』はそう言う事も出来るのか、だから引きこもるほど熱中するのか、と思わず信じてしまう。 
「さて、ご理解頂けたかしら?」 
 意外にしたたかなみっちゃんであった。 
「……」 
 詳しい仕組みは分からないが、とにかく状況は最悪らしい。 
 どうしようもない。 
 その絶望感に、水銀燈はへたりこんだ。 
「あぁん、その狼の前で絶体絶命になったうさぎちゃんみたいなか弱い仕草も可愛いわぁん」 
 みっちゃんは憑かれた様な眼光で容赦なくレンズを水銀燈に向け、シャッターを切り続ける。 
「そうねぇ…さっきのポーズ、カナや、また真紅ちゃん達が来てくれた時に見せてあげて、おんなじポーズしてもらおうかしら?」 
「!」 
 がば、と顔を上げ、驚愕の表情で震える水銀燈。 
「や、やめて…。お願い…それを妹達に…特に真紅に見せるのは…やめて…」 
「えー? でもぉ…」 
 みっちゃんはいたずらな表情で、尚もシャッターを切り続ける。 
 まるで、挑発でもするかの様に。 
「聞く…」 
「え?」 
「言う事聞く…聞…聞きます…。だから…お願い…します…」 
 屈辱、と言うより単に真紅達にあの姿を見られた時の恐れで体が震える。 
 最早、水銀燈に残された手段は哀願だけだった。 
「言う事を…聞くって…言ったかしら?」 
 みっちゃんの動作がぴたりと止まる。 
「ほぉーーーーっほほほほほっ! その言葉を待っていたわっっ!!」 
 みっちゃんの目が光り、両の手が触手のように蠢く。 
「ひ!」 
 水銀燈はその仕草に新たな感覚の恐怖感を覚え、思わず腰を抜かす。 
 ぴぽぱ。 
「もしもし、部長ですか? すいませーん、ちょっと急におばあちゃんが亡くなって…え? 二度目? じゃあおじいちゃんが亡くなりました。ですから、午後はって言うか今から早退させて頂きまーす」 
 ぷち。 
 みっちゃんは携帯を取り出し、手短に話を済ませるとあっという間に午後を自由時間としてしまう。 

「さぁぁてぇ…」 
「!」 
 なめらかなスローモーションの動き。そして、まるでドールのように首をぐるりと回して水銀燈を見るみっちゃんの目は、哀れなる獲物をねめつける肉食獣が如き喜びの瞳。 
 水銀燈は、信じられないが自分が弱々しい兎になったような無力感を感じ、軽く絶望感に包まれる。 
「うふふぅ。水銀燈ちゃぁぁん…。貴女にはぁ、これからわたしの家に来てもらおうかしらぁ…」 
「あ、ああ…」 
 イヤな色のオーラを纏ったみっちゃんの手が、力の抜けた水銀燈の腕を掴む。 
 その光景はまるで、姫をさらう魔女の様にも、鮭を狩る羆の様にも見えた。 
「めぐ……お、お父様ぁ…」 
「さぁさぁさぁ!」 
「ひ…」 
 水銀燈は消え入るような声で鳴くのが精一杯だった。 

 小一時間後。 
 なすすべもなくみっちゃんに抱きかかえられながら家の中に拉致監禁された水銀燈は、だが意外なもてなしにやや拍子抜けする。 
「紅茶はアッサムとアールグレイ、どっちがいい? あ、フレーバーティーもあるわよ? 
 お茶請けはスコーンにプレッツェル、アンガディネにリーフパイ、生チョコにムース、ガトーショコラ、モンブラン、 
 和風が好きなら玉露に玄米茶、ほうじ茶抹茶に昆布茶梅昆布茶、お菓子は最中に生八つ橋、餡蜜、水まんじゅう、 
 落雁おせんべかりんとう、とどめは虎の子の幻の和三盆をたっぷり使った葛切りだってあるのよ」 
「……」 
 一体、目の前にあるのは何人前の菓子なのだろう。 
 水銀燈は驚きを通り越して呆れ返っていた。 
「さぁさぁ、遠慮しないでたぁんと食べてね」 
 先ほどまでの圧倒的な気はなりを潜め、優しげな笑みで水銀燈をもてなすみっちゃん。 
 まるで別人の様な仕草に水銀燈は戸惑った。 
「…い、頂くわ」 
 状況は相変わらず如何ともしがたい。 
 だが、正直憧れのティータイムにイメージは相違ない。 
 もしかしたら、このまま帰してもらえるかも知れない、と言う希望が生まれ、水銀燈はおそるおそる紅茶に手を伸ばした。 
「…おいしいわ」 
「でしょう?」 
 完璧な抽出で煎れられたアッサムは芳醇な香りと濃厚、かつ後に残らない味で喉を潤し、鼻腔を満たす。 
 続いて手を伸ばしたアンガディネも美味。 
 水銀燈は、思いがけない至福の時の訪れに思わず緊張のたがをゆるめてしまう。 

「…いいところあるじゃない」 
 水銀燈が思わず呟き、みっちゃんの方を見る。 
 すると、みっちゃんはクローゼットの中から大きなボックスをとりだし、何やら物色していた。 
「ふんふん、これもいいわね…。これは…子供っぽい…あ、でもそのアンバランスが…」 
「な、何しているのよぉ」 
 水銀燈がいぶかしげに問う。 
「うふふ、気になるわよね。自分の事なんだから」 
「え?」 
 みっちゃんは、水銀燈の目の前にほら、とそれを広げる。 
「!!!」 
「セクシーでしょ? すけすけレースの黒下着にガーダー、それから皮のブーツにコルセット!」 
 造形的には美しいと言える。 
 だが、それが放つオーラはまがまがしく、そして黒い。 
「カナや真紅ちゃん達だと、やっぱり可愛いドレス系がメインになるから、こういうセクシーな衣装は 
 中々着てもらえなかったの。でも、あなたなら正にうってつけよね! おとなのみりょくって奴よ! これは貴重よ!」 
「あ、ああ……」 
 再び血の気が引き、水銀燈の手からリーフパイが落ちる。 
「かわいいドールにかわいい衣装を着せるのは王道だけど、やっぱりその対極として、少し倒錯的思想の入った 
 エロティシズムな世界も同じ魅力があるのよ! いままで貯めに貯めたえっちな、官能的な、エロスな、すけべな 
 衣装は山ほどあるわ! さぁ! 銀ちゃん! あなたの世界がこれから始まるのよ!」 
 息をのむ水銀燈。 
 みっちゃんの背後には、いつの間にかセットされているビデオカメラ。 
「………………」 
 希望が生まれていた。 
 それだけに、絶望への落差は広がる事になる。 
 みっちゃんの手が、おもむろに水銀燈の肩へ伸びる。 
 その手は背中に回り、ゆっくりと背中の紐を解いてゆく。 
「ああ…」 
 震える水銀燈。 
 だが手は一瞬の停滞もなくドレスを脱がせ、震える肩を舐める様にして両の手がなで回す。 
 背筋が凍り付く。 
 程なく上半身からドレスがずり落ち、恐怖に固まる水銀燈の白い肌と、形の良い胸が外気にさらされた。 
「素敵…」 
 既に焦点を失ったみっちゃんの瞳に胸が映し出され、その像はだんだん大きくなる。 
 つまり、顔が胸に近づいていた。 
「い…いや…」 
 次の行為を想像するのは簡単だ。 
 恐怖ですくむ体は何の役目もなさず、ただ妙にはっきりとした視界だけが事実を冷徹に映し出す。 
「ん…」 

 みっちゃんの赤い唇が、水銀燈の薄い桃色の乳首に触れた。 
「あ…!」 
 しびれる様な感覚に水銀燈はやっとの事で体を仰け反らせるが、それは皮肉にも更に胸を押しつける事となる。 
「んぅっ!」 
 恐怖におののき、きつく閉じたまぶたから涙がこぼれる。 
「いや…いや…お父様…めぐぅ…」 
「いい声…それに、あなたの乳房って、とっても柔らかくておいしいわぁ…ねぇ、水銀燈ちゃん? 私、ローゼンドールの事、例え様が無いくらい愛おしいと思っているけど、こんな風に欲情を覚えたのはあなたが初めてよ。本当、食べちゃいたいくらい…」 
 例えようのない感覚が乳首を襲い続け、水銀燈はあえぐ様に身を反らせる。 
「や…やぁ…あ…んむ…!」 
 乳首から首筋に向かって這い上がってきた舌は程なく水銀燈の唇を塞ぎ、その小さな口は為す術もなく犯され続ける。 
「今日は、最高の日にしてあげる」 
 みっちゃんの声はもう、どこか遠いところから聞こえているようだった。 

「みっちゃーん、いまかえったかしらー」 
「カナ、お帰りなさーい」 
 夕方のみっちゃん宅。 
 仕事で遅くなると聞いていたので、真紅達のところで夕食をたかってきた金糸雀が帰宅する。 
 いつもならみっちゃんにとびつく金糸雀だが、みっちゃんの何かが違う雰囲気にとまどいを覚える。 
「み、みっちゃん? どうしたのかしら?」 
「え? 何が?」 
「な、なんか…ちのにおいがするの…。それに、ゴミ箱から、まっかなティッシュがあふれ出ているかしら…」 
「ああ、気にしないで。ただの鼻血だから」 
 微笑むみっちゃんは微妙に頬が痩け、目もくぼんでいる。 
「は、鼻?」 
「そう、単なる鼻血」 
「だ、大丈夫なのかしら? お医者さんに行った方がいいかしら? それに、お洋服がみだれているかしら」 
「平気平気。今ね、わたしとっても気分がいいの。そりゃもう、天にも昇っちゃうくらいに…。ほら、なんか頭も幸せでぽーっとしているわ」 
 瞳を輝かせ、頭をふらふらさせながらもなお恍惚とし続けているみっちゃん。 
「ひ、貧血による幻覚症状と違うのかしら?」 
 カナは周囲を見回す。 
 見ると、ゴミ箱からあふれ出た鼻血つきティッシュ以外にも、周囲にはお菓子の残骸や卵焼きのかけら、紅茶にジュース、ケーキに焼き菓子等、ありとあらゆるお菓子類が山ほど散乱している。 
「なにかしら? このお部屋の状態…」 
「うふふ…泣く子にはやっぱりお菓子よねぇ…。おかげで、あんな格好やこんなことまでしてくれたしぃ…」 
 みっちゃんは真新しいHDDに頬ずりしながらあっちの世界を見ている。 
「みっちゃん?」 

「ふふ、カナ、わたし貴女に逢えて、ローゼンドールに逢えて、ほんっとーに良かったと思っているのよ」 
 金糸雀を抱き上げ頬ずりするみっちゃん。 
「う、うん。カナもそれは思っているけど…。それ、なに?」 
「あ、このドライブ? うふふ、この7200回転fire wire800接続、1TバイトRAID6のHDDは、これから我が家の家宝と 
 なるのよ。あのね、カナがもうすこし大人になったら見せてあ・げ・る。それにうっかりさんが着替えたまま 
 帰っちゃったから、また服を取りに来る…つまり、もう一度ショータイムが…ショータイムが! 
 ザ・ワールドがぁっ! くぉっほほほほほ!」 
 危険な瞳で微笑むみっちゃん。 
「し、しっかりして! 気を確かにかしら! って、きゃー! みっちゃん、だからほっぺがまさちゅーせっつかしらぁーーーっっ!」 
 揺れる視線で周囲を見回していたそのとき、金糸雀は山ほど積まれた着替えの中に見覚えのある服を見つける。 
「!? み、みっちゃん、あの服…」 
「うふふふふ…。今日は一日で人生半分くらいの運を使っちゃったかもぉ…。ねぇ、カナぁ」 
「……」 
 次元を突き抜けて幸せそうなみっちゃんに対し、金糸雀はそれ以上何も聞く事が出来なかった。 

 同時刻。 
「…めぐぅ…」 
 とっぷりと日も暮れた頃、病院の窓辺に水銀燈は戻ってきた。 
「水銀燈、おかえり…あら? どうしたの? その格好」 
 こっちの世界に戻っていためぐは、一瞬またあっちの世界を見ているのかと思った。 
 ふらふらと窓に降りてきた水銀燈。 
 その姿はシルクと真珠で飾られた真っ白なふわふわドレス。 
 黒い羽にも真っ白なショールが飾り付けられ、銀糸でプラチナの飾りが付いている。 
 その姿はまさに天使だった。 
「うう…」 
 泣きそうな、と言うか既に目を真っ赤にした水銀燈。 
 だが、めぐはそれも含めて愛らしい姿となっている水銀燈自身に目を奪われる。 
「素敵…やっぱり貴女、天使だわ!」 
 めぐが辛抱たまらんとばかりにおいでおいで、と手招きする。 
 気のせいか、めぐのおしりにははち切れんばかりに振っているしっぽが見える気がする。 
「め…めぐぅぅ…わたし…堕ちちゃった…穢されちゃったぁ…」 
 水銀燈が泣きながらめぐに近づいてきた。 
「あらあら、こんな可愛い格好なのに泣いたらもったいないわ。それに、あなたは高潔よ。だれよりもね。だって天使だもの」 
「うう…」 
 よろけるようにめぐの胸に納まり、そのまま珍しく素直に抱きついてくる水銀燈。 
 しかも両手をしっかりと背中に回し、母親の胸に甘える赤ん坊の様に顔を埋める。 
「水銀燈…」 
 その髪からは甘い香りが浮かぶ。 
 めぐは優しく抱き返し、至福をかみしめる。 
「…ふ…う…わああぁん!」 
 メグにおもいきり抱きついたまま、突如堰を切ったように泣きじゃくる水銀燈。 
 めぐは普段見せてくれないその仕草に感動しつつ、水銀燈の頭をなで続ける。 
「いい子いい子」 
 数分後。 
 泣き疲れた水銀燈はめぐの腕の中で眠っていた。 
 普段のあの権のある表情や仕草はみじんもなく、母に甘える子供のように緊張感のない顔で眠る水銀燈。 
 正直、病弱な腕には小さいとはいえドールは重いのだが、それでもめぐはずっと水銀燈を抱きしめていた。 

 その重さに、何か大切なものを感じながら。 
「もっとがんばったら、水銀燈ともっとこんなふうに出来るのかな…」 
 水銀燈の泣きはらした瞳から、忘れ物の様に一筋の涙がこぼれる。 
 めぐはそれをそっとキスでぬぐい、愛おしげに頬を寄せた。 
「…ところで、なんでエゴの香りがするのかしら?」 
 寒い風が窓から吹き込む。 
 普段なら体温を奪えとばかりにわざと開け放しにしておくのだが、今はその風が妙に冷たく、いやなものに感じる。 
 めぐはそれはまあいい、と頭から消し、水銀燈を起こさぬ様に立つ。 
 そしてそっと窓を閉め、カーテンも閉めた。 
 無意味だった暖房の熱がよみがえり、部屋に満ち始める暖かな空気。 
 忘れていた感覚が体を包み込む。 
「あったかくして眠ろうね。おやすみ、水銀燈」 
 めぐはそっと水銀燈を抱きながら横になり、そのおでこにキスをする。 
 何があったかは分からないが、とにかく泣きはらした後らしき水銀燈の顔は妙に子供っぽく、それがおかしくて、 
 そして切なくなるほどに愛おしく、めぐはしばらくその寝顔を眺め続けていた。 
 少しの後、病室の明かりが落ちる。 
 冷たい風は、今日は病室の中には届かなかった。 
 多分、これからも。 

 エピローグ 

「…やっぱり、この服は水銀燈のものかしら? と、言う事はここに居た…?」 
 艶やかなビロードの様に鈍く輝くドレスを手に取り、金糸雀はふんふんとその香りを嗅ぎながら確信する。 
「確かの様だわ」 
 真紅もふんふんと香りを嗅ぐ。 
「真紅、水銀燈の香り、知っているの?」 
 蒼星石が不思議そうに問う。 
「なんであいつがここにいたですかぁ?」 
「いや、ボクに言われても分からないよ」 
「うゆ? 遊びに来たんじゃないの?」 
 次の日。 
 みっちゃん宅には、ドールシリーズが勢揃いしていた。 
 自称ローゼンドール随一の策士として、我が居城(居候)に敵を招き入れるのは(二度目だが)得策ではない。 
 だが、流石に水銀燈が家に来ていたとなれば放ってはおけない。 
 みっちゃんは水銀燈に何かされ、脅かされたりしているかもしれないのだから。 
「あんなにげっそりしたみっちゃんは見た事がないかしら! あれはきっと水銀燈に力を奪われたに違いないのかしら! 
 カナは例え世界で最後の一人になってでも、みっちゃんを守るのかしら!」 
「だったらなんであたし達を呼ぶですか?」 
 翠星石が身も蓋もないつっこみを入れる。 
「う…だ、だって、水銀燈怖い…」 
「相打ちなら一人でやりやがれです。鉄砲玉は帰ってこないから鉄砲玉と言うですよ」 
「し、死にたくないかしらーっ!」 
「それより、そのはーどでぃすくの中には何があるの? それを調べなくては話が始まらないわ」 
「そ、そうかしら! だから真紅達も呼んだのかしら!」 
「…どうしてだい?」 
 蒼星石が冷静に問う。 
「ボク達、パソコンの事は殆ど知らないよ?」 
「ふぇ?」 
 金糸雀がすっとんきょうな声を上げた。 
「ふぇ? って言われても、本当だよ。ねぇ、翠星石」 
「もちのろんです! あたし達はぱそこんどころか電子レンジだってまともに扱えないですぅ!」 
 恥ずかしい事を威張りくさって宣言する翠星石だった。 
「え? え? だ、だって、あなた達、あの引きこもりのミーディアムがパソコンを使いまくっているから、知っているんじゃないのかしら?」 
「私たちは見ているだけよ。ジュンも、なかなかさわらせてはくれないわ」 
「なの」 
「…さ、策士、策におぼれるという奴かしら」 
 金糸雀はめまいを覚えていた。 

 今日は平日。 
 みっちゃんは当然仕事に出ている。 
 金糸雀は、頬を落ちくぼませたみっちゃんに今日は休む様に懇願した。 
 が、みっちゃんは頑なにそれを拒み、それどころか楽しくて仕方がないのだ、と満面の笑みで会社へと向かった。 
 主の居ない部屋で、ドール達はとりあえずお茶の時間をしながら善後策を練る事にする。 
「金糸雀、とりあえず出来るところまでやってみなさい。あなただって、少しはミーディアムがどうやってぱそこんを 
 動かすのか、見ているのでしょう?」 
「う…それはそうだけど、もしも壊したらみっちゃんが悲しむかしら…」 
「でも、水銀燈が絡んでいるとなるとボク達も黙っては居られない。彼女の事だから、本当にみっちゃんの命に 
 関わるかもしれないんだよ? 彼女、人が良さそうだから、水銀燈に誑かされているかも知れない」 
「そ、それは困るかしらっ!」 
「なら決定ですぅ。ほらほら、さっさとぱそこんのスイッチを入れてなんとか中身を見るですよ。お前のミーディアムの 
 命がかかっているですからね」 
「う…が、頑張るかしら…」 
「では、私たちはあっちでお茶しているわ」 
「頑張るですよ」 
「頑張って」 
「ふぁいとなのー」 
「は、はくじょうかしらーっ!」 

 小一時間後。 
 金糸雀は、必死でみっちゃんの普段の操作を思い出しながら、マシンの起動方法を探っていた。 
 やがて、はんべそをかきながらも金糸雀は起動に成功する。 
「や、やったかしら! 流石はローゼンドール随一の策士たる金糸雀の実力は確かだわ! みっちゃん、あなたの命を 
 守るためかしら。勝手にごめんなさい。で、ええと…こう、まるひってかいてあるフォルダを…こう、くりっく…。 
 で…あ、怪しいのはこのsuigintou_park.aviって言うファイルかしら? これは確か、テレビが見られるファイルかしら!」 
 金糸雀の写真が壁紙となっている画面に、突如ムービーが開かれる。 

 そこに映し出されたのは、銀の髪を揺らしている黒い衣装の天使。 

「…こっ! ここここ…これはなにかしうぼぁーーっ!」 
 カナの絶叫と鼻血の音がこだました。 
 そこへ、居間でお茶をしていた真紅がやってくる。 
「うるさいわよ、金糸雀。あら、中身を見られたようね。どれどうぼぁーー!」 
「し、真紅! 今の悲鳴だか祇園精舎だか分からないのは一体何うぼぁーー!」 
「それを言うなら擬音。で、翠星石、どうしたの? 一体何があうぼぁーー!」 
「何々ー? しんくー、お菓子がなくなっちゃうよー? 何があうぼぁーー!」 
 周囲は一瞬にして流血地獄と化した。 
 最も、この後今の衝撃とは全く異なる最狂のショーが待っており、更に流血の事態が続く事実など、どのドールも知る由は無いのであった。 

 どっとはらい 

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以上、おそまつ。 

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