前スレ>>924-929の続き。ていうかもうこっちに投下していいのか?
つーかこんなもの投下していいのかなぁ、とも思うが。
(何もわかってないくせに)
薔薇水晶は目の前に座る少年を睨みつけた。
『お父さまお父さまって、お前はどうしたいんだ!』『お前はお前だろ!』
いきなり怒鳴りつけられた。泣かされた。悔しい。
何も知らない他人に、あんな風に言われる筋合いはない。
(わたしのこと何も知らないくせに)
「薔薇水晶ちゃん、おいしい?」
のり、という名の、彼の姉が尋ねられる。おいしいです、と答える。
この料理(名前はわからないが美味しい)を盛ってくれたのは自分を怒鳴った少年だった。
片手では分割式の古風なトングが使えず、彼が見かねて取り皿に取ってくれたのだ。
お礼を言おうとしたが、なかなか言えない。それどころか目も合わせられない。
でも、昨夜のりと約束した。
『ちゃんとジュン君とお話ししてみよう』『お姉ちゃんと約束よ』
さっきも少し話したのだ。
『えらいわ、ちゃんとおはよう言えたのね。この調子で食事中に何かお話してみよう』と。
「……ありがとう」
ようやく口に出したが、その声はどうにも小さ過ぎる。
彼には聞こえなかったようで、翠星石と何か言い争っている。
「勉強なんてどーでもいいです! お前は一生家で翠星石の面倒を見ていればいいのですぅ!」
「ふざけんな! 絶対願い下げだ!」
「あなたたち、食事中に騒ぐものではなくてよ。全くテーブルマナーも心得ていないのだから」
どうしてこんなに悔しいのか、彼女にはわからない。彼の言葉は剣のように彼女の胸をえぐった。
何も言い返せないほどに。
「じゃあ行ってくるから」
土間床で靴を踏んで慣らす。開館と同時に図書館に入るつもりだったが、十分ほど遅れそうだ。
「行ってらっしゃいジュン君〜晩御飯までには帰るのよぅ」
「最近近所に野良猫が増えてきたのだわ。貴方も十分に注意するのよ」
「ふん、勉強とかぬかしてどおせあの剣道女といちゃつくのが目的ですぅ。脳ミソまでチビな
チビ人間なんかいくら勉強したって無駄なんですからずっと家で翠星石の(以下略」
玄関に全員出揃っての見送りである。三者三様に言葉を掛けられる。
「なんでみんなして出てくるんだ……」
いつものことなのだが、どうにも不審に思ってしまう。
本来嬉しいはずの見送りなのだが、どうしたわけか今日は妙な疎外感しか感じない。
まるで自分が居なくなるのを確認しに来ているかのようではないか、などと思ってしまう。
薔薇水晶を見るが、目が合うと俯いてしまった。
「……おい、さっきから……言いたいことがあるなら言えよ」
こらえ切れなくなり尋ねると、薔薇水晶は俯いたまま視線をあちこちに泳がせた。
「……行ってらっしゃい」
ようやくそれだけ言うと、また下を向いた。
「あ?……ああ……行ってきます……」
彼は肩を落とした。なんだそんなことか?
先ほどの「おはよう」といい、あいさつくらいこっちの顔を見て言えるだろう。
「あーチビ人間また泣かせたです!」
「こらジュン君っ、女の子には優しくしなきゃだめよぅ」
「レディに対する思いやりがまるでなってないわね」
今度は三者三様に責められた。何でなんだ。違う。
「何だよお前ら! 泣いてないだろ! もういいよ行ってきます!」
彼は逃げるように玄関を飛び出した。何なんだ。くそ。
「桜田君変わったよね」
日曜の昼過ぎだというのに、館内には浮浪者すらいない。
それなりに大きな図書館なのだが、周辺に学校が少ないのが理由だろう。
彼は広い学習室を幼馴染で友人の柏葉巴と殆ど二人だけで占有していた。
「あ? 何が」
ジュンは友人に問い返す。最近は日曜になると巴の所属する剣道部の部活動がなければ
こうして二人で勉強することも多い。彼女も受験勉強のため図書館を利用しており、
意識して離れて座るのもおかしいので自然と同じ机に向かうようになったのだ。
「ううん、変わった。前はあいさつする時もお話する時も、わたしの顔見てくれなかったもの」
「そうだっけ? ……ああ……まあ、そういえばそうか?
でも別に顔見なくたってあいさつはできるだろ」
そう言ってから気づく。今朝の薔薇水晶のことだ。
こちらの顔を見ずにはっきりしない態度。そうだ、自分も同じだったんじゃないか。
でも、どうして自分は人の顔を見ることができなかったんだっけ?
「真紅ちゃん達のおかげなのかな……」
彼女は言う。なんであいつらのおかげなんだ。
そういえば、柏葉には我が家にもう一人人形が増えたことを言っていない。
薔薇水晶のことについて、こいつに聞いてみようか、と思う。薔薇水晶は人形だが、女の子は女の子だ。
自分は女の子の考えなどさっぱりわからない。
「なあ柏葉……」
「ん、何?」
昼を済ませ、桜田家では皆思い思いに過ごしていた。真紅はジュンの部屋で読書を、
翠星石は庭いじり、のりも家事が一段落しリビングのソファで雑誌を読んでいる。
薔薇水晶もリビングに居た。何をするでもないが、ワニのぬいぐるみと戯れている。
またやってしまった。玄関で彼を見送った時のことだ。彼の顔を見れない。
しかし、彼が自分のことで狼狽しているのを見たら少し気が晴れた。少しでも困らせてやったのだ。
彼は今、柏葉巴という彼の恋人らしき女性(正確には唯の友人であり幼馴染だが、
翠星石の言動から彼女はそう判断した)と図書館で仲良く勉強しているらしい。そんな筋合いはないが不快だ。
自分をここに連れてきたのは彼なのだ。自分はそんなこと頼んでいないのに。
それなのに不愉快な思いをさせた上、それを放っぽって彼は恋人と楽しく過ごしている。
決めた。もう話しかけられても口を利いてやらない。帰ってきたらもっと困らせてやる。
と、サイドボードの上の一葉の写真が目に留まる。まだ幼い頃ののりとあの彼と一緒に、
大人の男女が写っている。皆親しそうに見えた。誰だろう。家人かもしれないが、顔を合わせていない。
「薔薇水晶ちゃん? どうしたの?」
サイドボードの前にずっと突っ立っている彼女を不審に思ったのか、のりが雑誌から顔をあげる。
「のり……」
「ん? なぁに?」
薔薇水晶はのりに写真を手渡す。
「写真……貴方達と一緒にこの写真に写っているのは誰ですか」
写真を見ると、彼女は妙に寂しげな顔をして話し始めた。
「ああ、この写真ね。わたしとジュン君のお父さんとお母さんよ。お仕事で海外に行っちゃってるの。
もうどれくらいになるのかなぁ。たしかジュン君がまだ……」
話し込むうち、結局閉館時間まで友人を引き止めてしまった。
暗くなってしまったので、ジュンはとりあえず送る、と巴に申し出た。
正解だったと思う。暗くなると彼女の家路はどうにも不気味だ。あまり一人で歩かせたくはない。
二人で夜道を歩いていく。
「普通にしてればいいんだよ。ただそれだけ」
薔薇水晶のことを相談すると、彼女はそう言った。
しかし普通にと言われてもどうすればいいかわからない。自分が普通でなかったとも思えない。
いや怒鳴りつけたりもしたが。
「桜田君、その子に好かれてるんだよ、きっと」
好かれてる? 彼は考え込む。確か、前にも似たようなことを言われたことがある。
「大丈夫だよ、桜田君なら」
寂しげな顔をして言う。彼女がこういう表情をするのは、決まって腹の中に何かを抱えている時だ。
どうかしたのか、と訊いてみようか。訊かなければ彼女はいつも何も話さない。
「……着いちゃったね」
気づくと、既に彼女の家の前だ。何かを訊ねるのはとりあえず保留せざるを得ないようだ。
「大丈夫なのか? 門限とか……僕から話そうか」
「平気よ。うちは特に門限なんて……桜田君が一緒だとかえってややこしくなっちゃうかも」
彼女はそう言って笑った。まあそうだな、と彼は思った。
「そっか。……遅くまで付き合せて悪い」
「ううん、わたしが好きでやってるんだから……ありがとう、送ってくれて。また今度ね」
「? ああ、じゃあな」
そう言って立ち去ろうとした。
「あっ、桜田君……」
彼女に呼び止められる。
「何?」
ジュンは彼女に向き直り言葉を待った。心なしか彼女の顔が赤い。
「……何でもない……ごめんね。おやすみなさい……」
何だよ、と思ったが、既に彼女は踵を返していた。
ジュンは友人が小走りに玄関に駆けていき、戸を開けて家に入るのを見届けた。
しばらくそのままその場に突っ立っていたが、叱られるような声は聞こえてこない。
彼も踵を返し家路に着く。自分も少し遅くなってしまった。
(わたしが好きでやってるんだから)
友人の言葉を反芻する。感謝しているが、やはり女の子の考えなど自分にはさっぱりわからない。
たまたま同じ時間に図書館を利用しているから、一緒に勉強しているというだけではないのか。
夜空を見上げる。まだ星々がはっきりと見える時季ではない。
いくつかの名前がわかる大きな星を目で追う。
(普通に、か……おっと)
星なんか見ている場合ではない。彼は進む足を速めた。
「チビ人間まだ帰らないですね……何かあったんじゃないのですぅ〜?」
時計を見て翠星石が呟く。もう七時半になろうとしている。六時半までには帰ると言っていたのに。
「確かに少し遅いわね。今まで夕食の時間より遅くなることなんてなかったのに。
猫の襲撃を受けていなければよいのだけれど……」
真紅が言う。ジュンは元来意外と時間に几帳面な方だった。
時間だけでなく、なんであれ守るとなれば守る。
最もそれ以外に重要なことがあれば、簡単にすっぽかしてしまうのだが。
「何言ってるですか真紅! チビ人間はあの幼馴染とかぬかす女と一緒なのですよ!
猫よりよっぽど危険ですぅ!」
翠星石はジュンが巴と一緒に居ることが気に食わないらしい。
彼女いわく「あくまで自分のミーディアムだから」彼の身を案じているそうだ。
「落ち着きなさいな翠星石。ジュンにそんな甲斐性はないわ」
吼える翠星石に対し、真紅はあくまでクールだ。真紅にとっては巴は良き友人である。
それより猫の方がよほど危険な生物だ。粗野で不浄で品がなく、礼儀も謙虚さも何もない。
この世で最もおぞましい厭うべき存在である。
「チビ人間にその気がなくてもあの女は何をしでかすかわからんのです!」
翠星石は立ち上がり、かなり偏った視点から巴の不審な点をあることないこと吐き散らしはじめた。
薔薇水晶は彼女達のすぐ側で会話を聞いてはいたが、それに加わるでもなく一人考えていた。
あの彼のことを。父と母に置き去りにされ、それでもあんな言葉を。
あの言葉は上っ面を舐めたものではない。彼もまた同じ悲しみを知り、それで自分を……
(彼もわたしと同じ? お父さまとお母さまに置いていかれて、でも、それでも……)
でも帰ってきたら、今度はちゃんと言おうかな、と思う。
今度は困らせたりせず、しっかり彼の顔を見て、おかえり、と。
「ちょっとバラスィー! お前はどう思うですか!」
「え?」
突然翠星石に呼びかけられ、薔薇水晶は意識から顔をあげる。翠星石は薔薇水晶を「バラスィー」と呼ぶ。
曰く「お前の名前は長ったらしくていかんですぅ」とのことらしい。
「チビ人間のことですよ! お前も最低のちんちくりんのおっぺけぺーだと思うですよね!」
考え事をしている間に、議論はどうやらジュンに矛先が向いたようだ。それもかなり不利な方向に。
あの少年。あの少年を自分は……
「わたしは……」
その時、玄関から音がした。
「あらジュン君帰ってきたね」
のりが彼を出迎えに玄関に向かう。他の者もそれにならった。
「おかえりジュン君。勉強お疲れ様」
「ただいま。遅くなって悪い」
彼は目を擦っている。暗い野外から明るい家の中に入ってきて、まだ目が追いついていないのだろう。
「あーチビ人間遅いです! ぜーったい剣道女とちちくりあってやがったです!」
「なんだそりゃあ! 何言ってんだお前!」
ばたばたと走り寄りながら翠星石が噛み付く。やはり巴のことが気に入らないらしい。
「猫は暗くなってからが本物なのだわ。本性をあらわしたケダモノに対抗する術はなくてよ。
悪いことは言わないから今度からもっと早く帰ってくる事を勧めるのだわ」
翠星石の後ろから真紅が忠告する。しかし猫のことなど彼女以外誰も気にしていないのだ。
「ケダモノはこいつですぅ! 神聖な図書館で剣道女とちょめちょめなんて
日光の猿以下です淫獣ですぅ!」
「違うって言ってるだろーが! 何だちょめちょめって!」
のりがその様子を見てくすくす笑っている。
薔薇水晶は決意した。これはのりと約束したことでもある。彼におかえり、と言おう。
彼の前に歩み出て、真っ直ぐに顔を見つめた。彼もこちらを見ている。
「巴さんとちちくりあっていたのですか」
……間違えた。
「……へ?」
彼が固まる。
「貴方は不浄です」
違う。おかえりなさい、と言うのだ。
「お、おい待て……」
彼が手を伸ばしてくる。
「触らないで」
ぴしゃり、とその手を払ってしまう。そうじゃない。
「バラスィー結構言うのですぅ……」
「中々に侮れないのだわ」
「ああもう……薔薇水晶ちゃんったら……」
三者三様のコメントがあった。
「おいこら翠! こいつに何吹き込んだ!」
ジュンは翠星石を振り返り詰問した。性悪人形だ。こいつ以外に考えられない。
「何興奮してやがるですぅ。やはり猿ですぅ。翠星石は事実をありのままに話しただけですぅ。
『チビ人間は眠ってる人形の体を触れまわす変態破廉恥漢だ』って。
真紅に聞いたですネタはあがってるですぅ」
「な……!?」
「わたしを眠らせようとしたのもそれが目的だったのですね」
薔薇水晶は汚らわしいものから身を守るように自分の体を抱いた。
自分は何をやっているのだろう。こんなことを言おうとしたのではないのに。
「ちっ……違うっ! ね、姉ちゃん……」
ジュンは唯一の味方であるはずの姉に助けを求めた。
「ジュン君、お姉ちゃんに言ってくれれば……真紅ちゃん達に手を出すなんて……
思春期の男の子なんだから、お姉ちゃんわかってるのよぅ」
涙を浮かべて姉が言う。それが彼にとってトドメとなった。
「うわぁぁぁぁぁ! 何なんだぁぁぁぁぁ!」
土間の中心で、ジュンが叫ぶ。片方だけ紐解いた靴を履き。
無様ね、と真紅が呟いた。
「やはり不浄です」
薔薇水晶は繰り返す。ごめんなさい、間違えたのです。
明日こそ。明日こそちゃんと言おう、と彼女は思った。
――――――――――――――――――――
勉強がひと段落したところで、何か飲むものを探しにリビングに降りてきたら、
人形達がなにやらDVDレコーダーをいじっていた。
そういえば今朝真紅が「くんくんが復活するのだわ! ああくんくry」とか
言っていたのをジュンは思い出す。第二期終了から約三ヶ月。素早い復活だ。
どうやら録画するつもりらしい。
「あ〜んこんな説明書わかんないですぅ〜。真紅〜」
しかし翠星石は機械に弱い。掃除機や電子レンジといった家電すら使いこなせない。
「困ったわね……どうしましょう」
水洗トイレなど、現代の常識的なことを知らないのは真紅も同じである。
彼女が出来る操作は再生だけだ。頭出しすらできない。
二人とも文明の利器を前に途方に暮れていた。
「今はここです。番組表が取得されていません。
右下の丸いボタン押せば画面に現れます。リモコンで選択するのです」
手を出そうかと思ったが、意外にも薔薇水晶がこの問題を処理した。
翠星石から説明書を受け取り指示していく。
泣きそうになっていた真紅が、わあ、と声をあげた。
「これでやっと録画準備も完璧なのだわ。素晴らしいわ薔薇水晶」
褒められて、薔薇水晶の顔が少し赤くなる。彼女はすぐ赤くなる。
「気に入ったですバラスィー! 家に来て妹をファックしていいです!」
翠星石は昨日映画で見た台詞で彼女を称えた。
ジュンは吹き出しそうになったが、二人とも意味はわかっていないようだ。
「紅茶を淹れてきます」
照れを誤魔化すように薔薇水晶は立ち上がった。
「僕が淹れるから。お前座ってろよ。コーヒーも淹れてやるから」
彼女に熱い液体を扱わせるのは危ない。ジュンは名乗りをあげた。
「あらジュン、勉強は終わったの?」
「チビ人間居たなら手伝えですぅ。お前は勉強なんかしなくていいのです!」
人形達は今自分の存在に気付いたようだ。
わからないならわかる人間を呼ぶとかは考えなかったのだろうか。
「お前らやり方わかんないなら呼べよ。壊されちゃたまらないから」
真紅はともかく、翠星石はかなり無茶をやるから注意が必要だ。
彼女は相手が人であれ機械であれ、自分の思い通りにいかなければ基本的に
罵倒するか殴るか、もしくは何らかの計略を練り騙くらかすことくらいしかしない。
「わたしが淹れます」
薔薇水晶が食い下がってきた。
やらせてもいいが、もし真紅のカップを割ってしまったらえらいことになる。
「いいのよ薔薇水晶。お茶汲みはジュンの仕事なのだから」
「チビ人間鈴カステラもつけてですぅ」
第一こいつらは働く気がないのだ。好きなように言っている。やはりここは自分しか淹れる者はいない。
「まあ、どうせ僕も飲み物探しにきたんだから」
そう言って彼女の返事を待たずに食器棚から紅茶のポットを取り上げてしまう。
「……じゃあ手を洗ってきます」
薔薇水晶はまた適当な理由をつけて、洗面所に逃げてしまった。彼女は照れ屋だ。
「っぷ……」
じゃあってなんだよ。彼はおかしくなり、口の端から笑いが漏れた。
洗面所で一人になると、ふうと溜め息をつく。
あんな風な、賞賛されるような褒められ方は苦手だった。
父はいつも言い聞かせるような褒め方をしてくれた。
君は素晴らしいのだ、自分でそうは思わないか、と。
洗面台の高さは薔薇水晶の顎程になる。彼女は踏み台に乗り、火照った手を洗った。
目の前には鏡がある。洗面台に備え付けの大きな鏡だ。
鏡はあまり好きではなかった。正確には、鏡に映った自分を見るのが。
自分の顔立ちに不満があるわけではない。どこを取っても完璧に削り込まれている。
自分はそのように作られたのだから当然だ。自分の容姿に特別感心があるでもないが、
これで不満があるというのも問題だろうし、そもそも特に意識したことはない。
だが、鏡に映った自分を長く凝視していると、霧がかかったように曖昧なものに見えてくることがある。
完璧であるはずなのに、注視すればするほどにどこか歪んで見えるのだ。
ここ最近はより強くそれを感じるようになった気がする。
それは彼女を不安にさせる。それというのに、覗き込まずにはいられない。
蛇口を閉め、じっと鏡を見据える。鏡の中の自分自身を。
睨みつけると、鏡の中の自分も睨み返した。
(あなたはだれ)
鏡の中の自分に問いかける。
(あなたは本当にわたしなの?)
「彼女」は、眼帯を逆の眼に掛けている。自分は左目に、彼女は右目に。
薔薇の刺繍が施された、お気に入りの品だ。
(あなたはだれ? ……わたしは……だぁれ?)
少しずれた眼帯を直そうと手を掛けた。その時だった。
「……!」
彼女は驚愕して眼を見開いた。よろめき、はずみで洗面台の石鹸を落としてしまう。
そのまま背後の壁に突き当たる。
「はぁっ……はぁっ……はぁ……はぁ……は……」
鏡の中の自分が、笑ったような気がしたのだ。歯を見せて、残酷に。
それは一瞬のことだったが、十分に彼女を戦慄させた。
胸に手を置いて呼吸を鎮める。見間違いだ。今鏡が映しているのは、滑稽に狼狽する自分の顔。
「バラスィーいつまで手洗ってるですか、もう始まっちまうですよ!」
翠星石が呼んでいる。もう一度鏡を見る。変わりはない。やはり気のせいだ。
彼女は濡れた手を拭き、リビングに戻った。
この時、鏡の中に自分を置き忘れてきたことに彼女は気付かない。
台所を覗くと、彼はまだ薬缶で湯を沸かしているところだった。
「ほら、早く座るですぅ」
翠星石に促されソファに座ると、見計らったように彼女達が目当てにしている番組が始まった。
同時に録画がスタートする。
『やあテレビの前のよい子諸君! テレビを見るときは部屋を明るくして離れて見るんだよ!
くんくんとの約束だ!』
テレビ画面に奇妙な顔をした犬と思しき人形が現れてそう告げた。
「ああくんくん……」
真紅が恍惚とした表情でその人形に魅入っている。
いつもの彼女からは想像できない顔に少し驚いた。
「ぬう〜ついに始まりやがったですぅ……!」
ブザーが鳴り、緞帳が上る。
人形劇団のーまっどによるテレビ人形劇、くんくん探偵第三期「機械仕掛けのMy Lover」の開幕であった。
ジュンは椅子に座り、冷蔵庫から探り出したオレンジジュースを飲みながらコーヒーが沸くのを待った。
そのままなんとはなしに彼女達の様子を伺う。
真紅は既にバーサク状態にあったが、翠星石はまだ冷静に物語を追い、「おじじの名にかけて」などと
言いながら事件について自分なりの推理を得意げに披露していた(ことごとく外れていたが)。
薔薇水晶はわかっているのかいないのか、ただぼへーっと猫警部の現場検証を見ている。
だが次第にその右目が爛々と輝きはじめると、要所要所で体をぴくぴくと震わせたり
正座した(ソファの上である)脚をもじもじさせたりしはじめた。
抱き締めたワニのぬいぐるみが悲鳴をあげている。
千切るなよ、と彼は願った。その場合、直すのは彼である。
薔薇水晶を連れてきて三ヶ月近く経つ。近頃はわざと憎まれるような振る舞いをすることもなくなった。
少し前までは中々ひどいものだったのだ。誤解を招くようなことを言ってジュンを陥れたり、
彼が不利になるような嘘をついたり、突然無茶なわがままを言い出したり。
しかも最終的にジュンだけが悪者になるように仕向ける。そういうことが一日に最低二回はあるのだ。
これにはさすがに参った。
「それ、ジュンジュンのこと試してるんだよ」
少し前に知り合いになった草笛みつ、という女性に相談するとそう言われた。
相談、というより、話の流れで口を滑らせたのだが。
彼女は第二ドール金糸雀のマスターで、その縁で知り合ってから度々ジュンの家に遊びに来ていた。
人形の収集を趣味にしており、彼女のドールに対する情熱は並ならぬものがある。
薔薇水晶を見つけたときの彼女のリアクションといったら思い出しただけで疲れる。
薔薇水晶が無抵抗なのをいいことに抱きつきこねくり回して可愛い可愛いを連呼しながら
何枚も写真を撮り……まあそれはともかく。
「だってジュンジュンに連れてこられたわけでしょ?この人は自分がこんなことをしても
守ってくれるのか、こんなことしても置いておいてくれるのか。
自分の保護者になる人の度量が知りたかったんだよ、きっと」
彼女はジュンのことを「ジュンジュン」と呼ぶ。保護者ってなんだよ、と言うと、彼女は更にこう言った。
「あれ、あの子を守りたくて連れてきたんでしょ?
いや〜ジュンジュンも男だね! みっちゃん見直しちゃった」
守りたくて連れてきた。多分その通りだ。
しかし、自分に彼女の保護者となるだけの資格があるかというと自信などない。
所詮さらって来た子供だ。
「多分、今はまだ怒っちゃ駄目。あの子を安心させたげて」
そうかもしれない。一度あることで強く叱ってしまい、少しずつ心を
許してくれるようになったのに全て振り出しに戻してしまったことがあった。
図書館に行こうとしたら、薔薇水晶に自分の靴を全て隠されてしまっていたのだ。
靴はなんとか見つけたが、随分と友人を待たせた。
その頃には具体的に待ち合わせるようになっていたのだ。
さすがにこれにはキレて頭ごなしに怒鳴りつけると、
彼女は逆上して押入れに篭ってしまい、七時間も出てこなかった。
「くぅ〜無愛想で素直になれない無口なドールに……みっちゃん……激萌え!」
うるさくなるので思い出すのをやめた。
テレビに目を戻すと、くんくんの宿敵、泥棒キャットがまんまと命の水を盗み出し逃走しているところだ。
『泥棒だ! 泥棒キャットだ! 向こうへ逃げるぞ! 捕まえろ!』
満月を背負い屋根から屋根へ、猫警部達をあざ笑うかのように飛び移る。
薔薇水晶は背中を丸めてその様子に熱中している。
コーヒーが沸いた。彼は立ち上がり、紅茶のポットと湯と、人数分のカップを盆に載せた。
薔薇水晶は昼メロと火曜サスペンス劇場以外にまともにテレビ番組を観たことはなかった。
特に興味が湧かなかったからだ。
しかし真紅の強烈な勧めがあり、彼女達と一緒にその番組を観ることになった。
常にクールな真紅がこれほどまでに狂うものに対し好奇心も出てきたのだ。
始めのうちはよく訳がわからなかった。テレビは離れて観るようにと命じた変な犬は、
くんくんという優秀な探偵であるらしい。
相棒の猫警部と共に数々の難事件を解決してきたのだという。
犬が探偵で猫が警官。まずこれが非常に彼女を混乱させた。
自分の知識では犬は警官をやっていて、迷子の仔猫に困らされるのだ。探偵などいない。
しかし真紅はこの変な犬にこそ夢中らしい。
更にカラスは著名な科学者であり、長い研究の末ついに命を持った人形を造ったのだという。
どうしてよりによってカラスがそんな人形を作っているのか、一切説明が無いのだ。
カラスは山に七つの子があるのだ。美女の人形にかまけている暇はないはずだ。
何もかも意味がわからなかったが、唯一泥棒キャットという怪盗の存在だけは少しだけ彼女を安心させた。
「この泥棒猫」という、昼メロの台詞を思い起こさせたからだ。
しかし物語に魅力を感じることができなかったのは、そういった作品の意味不明さのせいだけではなかった。
あの彼のせいだ。あの彼が、自分の体を抱えあげて膝に乗せているのだ。
何の遠慮も前触れもなかった。紅茶とコーヒーを用意した彼が、各々のカップにそれを注ぎ終わると、
いきなり自分の体を持ち上げてソファに座り、そのまま膝の上に乗せてしまったのだ。
当然と言わんばかりに。
自分のお尻が彼の脚に当たっていた。おかげで番組に全く集中できない。
「あの、あの……」
抗議しようとしたが、うまく声が出てこない。
そして翠星石が声を張り上げて暴れ出した。大騒ぎが始まる。
「ほあーーーっ! 何やってるですかチビ人間! このどスケベ変態そいつを下ろすですぅ!」
「僕だって正面で観る権利はあるだろ! 文句あるならお前があっちのソファに座れ!」
「ちょっとくんくんの美声が聞こえないじゃない! 騒ぐなら他所でやってちょうだい!」
ひとしきり騒がしくなり、やがて落ち着く。彼は自分を抱えたまま鈴カステラなどつまんでいる。
皆が再びくんくん探偵に意識を向けた。
自分もなるべく番組に集中しようと努めた。とにかく意識を背中とお尻から引き剥がさなければならない。
テレビ画面には、事件の首謀者であるカラス博士が造り上げた、
美しい女性の姿をした電気人形が映し出されている。
彼女に今まさに命が吹き込まれようとしていた。
博士が持っているビーカーに満ちているのは、人形に命を与える特別な水である。
ローザミスティカのようなものらしい。
薔薇水晶はローザミスティカを持っていない。
内部に備えた精巧なオートマット(自動機構)により動いている自動人形だ。
父である人形師エンジュにより初めて内臓機関の運転を始めた時、
彼女は父の問いかけに対しただ「ハイ」としか答えられない、文字通りの人形であった。
「君の名前は?」と訊かれ「ハイ」
鏡に映った自分を見せられ「この子は誰かな?」と訊かれても「ハイ」
「自分が今居るところはわかる?」と訊かれたなら「ハイ」
「気分はどうだい?」と訊かれようものでも「最高に「ハイ!」ってやつだァァァ!」
最後のは少し違った気もするが、とにかく何を訊かれてもハイ。それしか言葉を知らなかった。
「薔薇水晶。君の名前だよ」
父は何度も呼びかけた。自分の名前を呼んだ。
彼が話しかけているのが自分であるとを理解するのにかなりの時間を要した。
それが自分の名前であることがようやく解った時、自分の内側に何かが芽生えた。
同時に自分の外側にも世界が広がっていることを認識した。目の前に居るのは、自分の父だ。
傍らの兎が呟いた。
「わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です……
箱入り猫は、箱から出た時に初めて生まれる。お早う、お嬢さん」
その時彼女の内部に発生したものがなんであったのか、彼女自身にもわからない。
自分を形作るものであることは確かだ。直感的にそれだけは理解できた。
もしこれが消えてしまえば、糸の切れた人形のように、自分は崩れ去ってしまうだろう。
『さあお嬢さん。よろしかったらいよいよ生きる時がやってきましたよ』
暗い研究室で、カラス博士が自身の造り上げた電気人形に囁く。
美しき電気人形は首を反転させ、カラス博士に向き合いこう言った。
『まあ! 別に生きたいとも思いませんけれど』
彼が鈴カステラに手を伸ばす。身をよじられて、お尻がこすれる。やっぱり集中できない。
――――――――――――――――――――
「翠星石はケンカは嫌いなのです。姉妹をなくすくらいなら
アリスになんてなれなくてもいーです」
「わたしはわたしのやり方でアリスゲームを終わらせる。
姉妹達のローザミスティカを奪わなくても、お父さまにお会いする方法はあるはずよ」
いつだったか、会話の中で彼女達はそう言っていた。
どうして彼女達はこんなに強い?
思いの強さでは、自分は誰にも負けていないつもりだった。
だが、自分の戦いが父のため、父の「ローゼンを越える人形を造りたい」という思いを
代行していただけのものとすれば、彼女達のそれはまさしく「己の戦い」だった。
「彼は最も優れた人形師だ。世界中のあらゆる人形作家や機械技師、この国の、
日本のからくり人形師やロボット工学者でさえ適わない」
酒に促されローゼンについて語るとき、父はいつもどこか誇らしげだった。
父が越えようとした目標は、いつの間にか自分の存在理由になっていた。
自分は自分ではなく、父の思いの権化であったのだ。
玄関が開き、ただいまー、という声がした。
「みんなごめーん、荷物運ぶの手伝ってぇ。いっぱい買ってきちゃったぁ」
のりが買い物から帰ってきたようだ。しようがないわね、と真紅が立ち上がる。
「もう、こんな時に限ってジュンがいないんだから」
「よっしゃバラスィー手伝うです。オマエは翠星石の妹分なんですぅ」
彼女達は、自分が生きる理由を自分自身で持っていた。他の誰かから与えられることなく。
自分には、消し去れぬ想いがあった。父に会いたい。
もう一度、手を取って抱き上げてもらいたい。もう一度、名前を呼んでもらいたい……。
『人形を造り、それに魂を込めることは、鏡を凝視することに似ています。
鏡は像を映し出すのではなく、造り出すのです。
あなたが鏡を覗きこまなければ、そこにはなにも映ってはいなかったのですよ』
くんくん探偵・機械仕掛けのMy Lover 第一幕「槐安の夢」推理編より
一面に霧がたなびいていた。魂まで濡れて冷え切ってしまいそうな濃霧だ。
見えるものは何もなく、自分の存在すら見失いそうになる。
自分はつい先ほどまであの彼の部屋に居たはずだ。気がつくとここにいた。
またあの兎の悪戯だろうか。
(面白い遊びをしましょう)
どこかから声が聞こえた。若い女性の声だ。
「あなたは誰……?」
薔薇水晶は尋ねる。
(『あなたは誰?』……わたしは誰? 当ててみて)
彼女は考えた。自分は彼女を知っているのかもしれない。
手を顎に当てて思い出そうとする。でも、どうしてもわからない。
「わたしわかりません。貴女はわたしを知っているのですか?」
(貴女がわたしを知っているのよ。誰よりもよく知っているはず)
「ごめんなさい、どうしても思い出せません。……わたし貴女を知らないんじゃないかしら」
(わたし達ずっといっしょに居ました。今でもずっといっしょだわ。知らないなんてひどい)
彼女はまた考える。ずっといっしょに居た?
あたりは本当に静かだ。
(本当にわからない?)
少し霧が薄くなり、あたりを把握することができるようになった。
そこは知っている場所だった。今自分が住んでいるところ。あの彼の家のリビングだ。
家具も壁も、何故か全て白で統一されているが、間違いない。まるで書き割りのようだ。
「それじゃあわたしを捕まえて……捕まえられたら教えてあげる」
今度は声の方向がわかった。トントンと足音が遠ざかっていく。彼女は追った。
何者か知らないが、その声の主は自分にとって置いておけないものなのだと感じた。
ばたん、とバスルームを開ける。誰も居ない。
トイレ。違う。押入れ。布を被った古い鏡があるだけだ。ここも違う。
暫く一階を探し回った。
「お部屋はどこも真っ白。家具はみんな備え付け。あなたはここに居るフリをすればいい」
二階だ。階段を駆け上がり、のりの部屋に入る。押入れも調べたが、ここじゃない
次の部屋。開いたままのドアを覗く。彼の部屋だ。
その少女は、そこにいた。
「今晩は」
少女は薔薇水晶が使っているベビーベッドの上で、部屋に入ってきた彼女に微笑みかけた。
白い髪に白いドレス。右の眼窩から白い薔薇が咲いている。何処も全て真っ白な少女人形だった。
「貴女は誰?」
薔薇水晶は尋ねた。
「貴女は誰?」
と白い少女も返す。
「そこをどいて」
少女がまるで自分のもののようにベッドに座っているのが気に入らない。
そのベッドはあの彼が使っていたものを自分がお下がりしてもらったものだった。
「わたしの場所です」
「あら、違うわよ」
足をパタパタと振りながら少女は天井を見回している。
「ここは貴女のうちじゃないでしょう」
そう言って再び彼女に視を戻した。
「ここは違います」
「でも、ここによく似たわたしの家があるの。そこはわたしの場所です」
何故こんなにむきになるのかわからないが、絶対にこの少女に
譲ってはならないと感じた。彼女は、危険だ。それを直感したのだ。
「貴女は第七ドールですね」
そう彼女が言うと、少女はいっそうの笑みを浮べて両手を広げた。
「ねえ、こっちにいらして」
彼女は黙っている。ローゼンメイデンではない自分に、この少女は何の目的で近づいてきたのか?
それを警戒しているのだ。もしここで戦いになったら、どうなる?
自分には戦うだけの力は既になくなっている。武器は全て無くした。
単純な腕力さえも、殆ど発揮できない。
仮にまだ力を持っていたとしても、ぶつかることは避けたかった。
自分は彼女に勝てない。絶対に。それもまた直感で理解できた。
「もう、焦らさないで」
一瞬だった。少女がこちらに手を伸ばしたと思ったら、体をいばらが拘束していた。
そのまま彼女の元に引き寄せられる。なんという力……!
「……っ! 放してっ」
振りほどこうともがくが、暴れれば暴れるほどにいばらは深く体を締め付けていく。
途轍もない力だ。絶対に逃れられない。
「放さないわ」
少女は飴細工のような指先で薔薇水晶の頬を撫ぜた。眼帯に指がかかる。
「あぐ……うぅ……」
触らないで、と叫ぼうとしたが、もはや声を出すことも苦しかった。
「ねえ、わたしたち、はじめましてじゃないの。わたしのこと、ほんとうに、しらない?」
少女に問われる。肩に置かれていた手が、わき腹に下がっていく。
「やっ……知りません……やめて」
「じゃあ、貴女はだれ?」
「わたしは……薔薇水晶」
「ばらすいしょう。それがあなたなの?……ウフフ…」
何かおかしなことを言われたかのように、少女は目を細めて笑った。
「ばらすいしょうさん、実はここに鏡があります」
目の前に大きな姿見が現れた。あの彼が「がらくた部屋」と呼んでいる、あの部屋の鏡だ。
「……!」
そこに映されたのは、よく知る自分の姿ではなかった。
白い髪に、右目から伸びる白い薔薇。自分を吊るしている少女に良く似た、だが
その顔は紛れもなく自分のものだ。怯えた表情でいばらに吊るされている。
あの時鏡に現れたものは、幻ではなかった。戦慄が走る。
「いやっ……どうして……!?」
鏡の中の自分は凶暴な笑みを浮べた。残忍で、攻撃的で、無慈悲な笑みだ。
「やめて! こんなのわたしじゃない!」
鏡の中の「それ」の、失われた「右」腕の肩口から、白いいばらがぞろぞろと湧き出した。
「それ」はその様子を見て狂ったように笑っているのだ。体をびくびくと痙攣させて。
違う。これは自分ではない。こんなものは……。
「これが貴女よ」
白い少女の両手が頬にかかった。
「空っぽで、自分がどこにもいない。
他の誰かに自分を映さなければ、自分が誰かもわからない……」
そのまま、強く口付けられる。
「っ!? んっ、んぅ! むぐ……」
舌がねじ込まれ、口腔を犯される。湯を流し込まれるような悪寒が背筋を伝った。
「……悲しみと孤独に満ちている、貴女自身の心よ」
少女の唇が離れる。唾液が糸になって垂れ、ドレスを濡らした。
「ン……ハッ! ハッ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……」
長い口付けから開放され、彼女は必死に内臓器官に酸素を送り込む。
「やめ……て……ちがう、ちがう……」
ぼろぼろと涙がこぼれる。怖い。自分の中で、何かが瓦解しようとしている。
「だってほら……貴女はどこ?」
少女が言うと、突然場がリビングに戻っていた。テレビを観ている彼らの後姿が見える。
『くんくん探偵! くんくん!』
くんくん探偵が始まった。DVDのようだ。
「ねえ、薔薇水晶ちゃんがいないけど……どうしたのかしら」
「さあ? 知らないよ。またいじけて押入れにでも篭ってるんじゃないのか」
「翠星石ちゃんは?」
「知らんです」
「わたしはここです! ここにいるわ! こっちを見て! お願い気付いて! 気付いて!」
力の限り、大きな声で叫んだ。発声器官が潰れそうになるほどに。
『耳を貸すな! 見ちゃいけない! 閃光弾だ!』
テレビの中で誰かが叫ぶ。激しい光がテレビ画面を覆った。
「助けて! 助けて真紅! のり! 翠星石! ……ジュン!」
喉を絞るように、枯れた声を出す。初めて、彼の名を呼んだ。
「あんな奴どーでもいいですよ。人が憐れんで目をかけてやってたのに
勘違いして、翠星石のミーディアムに色目使うとはいい度胸してやがるです」
「ねえ真紅ちゃん……」
「どうでもいいじゃないの。今いいところなんだから邪魔しないでちょうだい」
「そうね。どうでもいいわね」
「あんな恩知らず居ない方がいいですぅ」
「そーいうこと」
脚が震えた。目の前が暗くなる。
「なんで……? どうして……」
『泥棒キャットめ、遂に追い詰めたぞ。今日こそお前を逮捕する!』
猫警部が手錠を取り出した。
「ていうか……誰? そいつ」
ジュンが他のものにそう訊ねた。
みしり、と音がした。見ると、体のあちこちからいばらの芽が生えている。
それは徐々に生長していく。
「このなかに、貴女の居場所なんてないのよ」
手放してしまいそうな意識を、どうにかかき集める。
少女の手が彼女の薄い乳房にかかった。もう片手は腿の内側をなぞりあげている。
「ね? だからわたしと、遊びましょう……?」
体を撫で回される。少女の口調はあくまでも穏やかだ。それが更に恐怖をあおる。
何でもないことのように、自分を消し去ろうとしている。
「やめて……離して……」
「だめ」
胸元から手が差し込まれ、表面を滑るように乳房を弄ばれている。
内腿にあった手はさらに上り、秘所をまさぐりはじめた。
「いやっ! やめ……っあぁ!」
そこはぐちゅぐちゅと音を立てた。敏感な場所を突かれる度に、火をあてられたように体が跳ねた。
更に乳房を露出させられ、先端を強く吸われ、揉まれる。
「っあ、あっ、うあ……あっ、あぅ! やめてっ、やめ……やめてぇ……」
そのまま時間をかけて執拗になぶられた。まるでおもちゃのように扱われ、幾度も達しそうになる。
「素敵なからだ」
少女は呟き、責めを激しくする。乱暴に秘書に指を突きたて、乳房をもみしだく。
「あっあっ、痛い、アッアッアッアッアッ! あん、あん、あああっ! あーー!」
一際大きく喘ぎ、果てた。痙攣が治まらない。
「あっ、はぁっ、はぁっ、あっ、痛い、痛い……はぁ、あんっ、痛い……」
いばらが体に食い込み始めた。鋭い痛みが襲う。
「あなたはだぁれ?」
少女に問われる。
「わかりません……あっ、はぁ、はぁ……わたしなにも知りません……もうやめて」
熱と疲労と恐怖で、何も考えられない。達したばかりでも容赦なく責め続けられたのだ。
愛液が震える内腿からブーツを伝い、床に落ちていく。
「ゆるして……」
「ゆるさないわ」
「もうかえして」
「かえさない」
少女が顔を覗き込む。そこに映る自分は、もはや完全に自分の姿をしていなかった。
はだけた体に白い茨が絡みつき、快楽に顔を歪ませ身をよじる、片腕のない玩具。
「あなたが帰る所なんてどこにもないのよ」
茨が伸びた。手の甲から、腹から、間接から、眼帯の隙間から、白い薔薇が顔を出した。
自分の体が、乗っ取られていく。
「あっ……あっ……いや……イヤアアアアアアア!!!」
反射的に出た叫びだった。自分が他の何かに踏み潰されるのをかろうじて拒絶するような。
それは彼女が初めて味わう種類の恐怖だった。