有楽町から東京まで、延々と続く架線。 
梅雨特有の不愉快な湿気が、夜の闇を満たしていた。 

私の名前は桜田純一。 中小企業に勤めるしがないサラリーマンだ。 
妻に若くして先立たれてからの15年、仕事だけを生き甲斐に暮らしてきた。 

家路を辿る足を休め、頭上を走る山手線を見上げる。 
趣味もなく子供もない私にとって、家とは睡眠を取るために帰るだけの場所に過ぎなかった。 

帰らなくてもいいか。 不意に捨て鉢な衝動が込み上げる。 
今日はまだ、週も半ばの水曜日。 本来ならば明日に備えて休息を取るべきだ。 

だが、疲れてしまった。 愛する妻を失い、仕事だけをこなす日々。 
それでも今まではこなしてこれた日々。 それなのに、今日、唐突に人生に疲れてしまった。 
疑いながらも明日を信じていたのかもしれない。 だからこそ今日まで生きてこれたのかもしれない。 
なのに、今日鏡の中から自分を見返していたのは。 希望もなく年老いていくだけの、単なる疲れた中年だった。 

帰らない。 そう決めた時、不安と恐怖の片隅で、不思議な快さを感じた。 
仕事も辞めよう。 もちろん辞めますと言って今日明日に辞められるような会社など無いが。 
それでもいい。 明日は仮病で会社をサボればいい。 

会社を辞めたら、毎日ぶらぶらと暮らそう。 僅かな蓄えを使い切ったら、妻の下へ逝こう。 
疲れた。 もう疲れてしまった。 もう挑戦も、新しい事も要らない。 
ただ、妻に会いたい。 もう一度めぐに会いたい。 
この人生が終わった時、私はめぐのいる天国に行けるのだろうか。 それだけが不安だった。 

陰鬱な梅雨にあてられたのか。 私の思考も暗く暗く回って落ちていく。 
ここに居ても仕方がない。 東京まで歩くか。 
目をやれば、架線に立ち並ぶ幾多の店。 仕事帰りの人々の楽しげな表情に、言い知れない嫉妬と羨望を覚える。 
思えば、めぐが生きていた頃はこの店を一軒一軒眺めて、二人で戯れたものだ。 
彼女を失ってからというもの、私は生気に溢れたこの通りを、無意識に避けていたのかもしれない。 

そうだ。 あの店。 最後に訪れたのはいつになるだろう。 「アリスゲーム」。 めぐが名付け親になった、場末の小洒落たバー。 
……行ってみようか。 行こう。 今日は、少しでもめぐの事を思い出していたかった。 

アリスゲームに着いた私は、入店を躊躇っていた。 
品の無いネオンと、いかがわしさを感じる入り口の男女。 私の記憶の中の店とは、何か雰囲気が違っていた。 
私の知っていたアリスゲームは、老若男女を問わず憩いの場となる品の良いバーだった。 
今私が目にしているけばけばしい店構えとは似ても似つかない。 

これではバーではなく、スナックと呼ぶ方が相応しい。 
そう考えて自嘲する。 40過ぎの疲れた男やもめ。 スナックの方が相応しいのは私も一緒のようだ。 

「あらぁ。 ひょっとしてぇ……あなたジュンじゃなぁ〜い?」 
舌っ足らずな口調で僕を呼ぶ声。 急激に懐かしさを呼び覚まされた僕は、声のした方向に振り返った。 

「銀ちゃん……。」 
間違いない。 めぐの親友だった女性。 夢に燃えてアリスゲームを開店した、美貌の才媛。 
年月は残酷だった。 あれ程美しかった彼女の容貌も、今や廃墟そのものだ。 
めぐより年上だった彼女は今40半ば頃。 年の割には若く見えるが、やはり衰えは誤魔化しようが無かった。 

顔だけではない。 彼女を蝕む年月という名の年輪は、あらゆる場所に見え隠れしていた。 

厚化粧にぬり込めて隠していても、私には分かってしまった。 彼女もまた、人生に疲れているのだ。 
目の下の隈はもはや隠しようもなく、彼女の選んだ人生の過酷さがありありと見て取れた。 

「珍しいじゃないのぉ。 ひょっとして、このうらぶれた『スナック』に飲みに来てくれたわけぇ〜?」 
思わず苦笑が浮かぶ。 外見こそ衰えたが、シニカルで機知に富んだ感性は健在らしい。 

「そんな所。 この店も変わったね……少し驚いた。 銀ちゃんは、変わらないみたいだけど。」 
「見え透いたおべんちゃらはやめてよねぇ。 そうね……何もかも変わってしまった。 
 六本木なんかも随分発展しちゃってぇ。 うちに来るのはオジサンばかり。 お互い年を取るわけねぇ……。」 

言葉に詰まる。 あれほどプライドの高かった彼女が、自分が敗残者であると認めるとは。 そんな言葉は聞きたくなかった。 
めぐと丁々発止していた頃の彼女のままでいて欲しかった。 
……やはり、来なければ良かったか。 思い出は綺麗なまま切り抜いて、アルバムにしまっておくのが一番だったのか。 

なんと侘しい夜なのだろう。 それでも、一つだけ良かった事もある。 
これだけ久し振りに会ったというのに。 私と銀ちゃんの間には少しの気詰まりも無かった。 めぐは、銀ちゃんの中にも生きているのだ。 
雨の中いつまでも立ち話をするものでもない。 私たちは連れ立ってアリスゲームの階段を降りていった。 

悲しいかな、店内にもかつての瀟洒ぶりは見る影も無かった。 
憩いの『空間』を提供するはずだったアリスゲームは、酒と艶やかなホステスを提供するだけの店になっていた。 

「まるでキャバクラよねぇ……理想よりもお金が大事なのよ、あの娘たち。 悲しいわねぇ……。 
 でもねぇ、軽蔑する一方で賢いとも思うわけ。 理想だけじゃ生きていけないって、あの年で知ってるんだものねぇ……。」 
ウイスキーをちびちびとやりながら、銀ちゃんの話を聞く。 
話の内容はみじめなものだが、それでもいい。 彼女の疲労を分かち合う事は、不思議と苦では無かった。 

「あれぇ、ママ。 珍しいじゃん、営業スマイル抜きでしっぽりしてるなんて。 ひょっとして彼氏?」 
茶化すような声に面食らって咳き込む。 私と銀ちゃんが? そう見えるのだろうか。 

「下らない事を言うんじゃないわよぉ、トモエ。 ほら、お客さんが待ってるじゃないのぉ。」 
「はいはぁ〜い。 あらぁ梅ちゃんセンセ、今日も来てくれたのねぇ……」 
元気な声が遠ざかっていく。 どぎつい化粧と衣装だが、なかなかの美人だった。 

「あの娘がうちのナンバーワンのトモエ。 私ほどじゃないけど、まぁまぁ美人でしょぉ?」 
銀ちゃんがカラカラと笑う。 釣られて私も笑顔になる。 
笑うとこじゃないわよぉ、との発言に、またしても笑い声を立てる。 不思議な気持ちだ。 
社交辞令として彼女に「変わっていない」と言った私だが、奇しくもそれは的を射た発言だったようだ。 

思えば、昔から銀ちゃんは人を元気付ける達人だった。 
めぐが心から愛した、彼女のその稀有なる資質。 それは年月で色褪せてしまうような物ではなかったのだ。 

ここに来て良かった。 私はそう思い始めていた。 だが。 

「ジュン……? なんでこんな所に……?」 
後ろから、私を呼ぶ男の声。 このパターンは本日二度目だ。 しかし一体誰だろう。 私は何故だか不吉な予感がした。 
振り返った私。 その男を見た瞬間、視神経が悲鳴を上げた。 確かに見覚えのある男。 
かつて銀ちゃんの恋人だった男。 私と親友だった時期もあった男。 だが、ある時期を境に、彼は私の前から姿を消したのだ。 

そして今、長い空白の期間を経て再会した彼は……「彼女」になっていた。 
筋骨隆々とした大男がフリフリとした少女趣味全開の真っ赤な服を着込んだその光景は、一種の悪夢としか思えなかった。 

「真吾……だよな? あの……一体どうしたんだ? その惨状は……。」 
「真吾だなんてイヤン! 今の私はオ・ン・ナのコ。 キューティービースト『真紅』って呼んで、ね?」 

衝撃で言葉が口から出てこない。 性転換。 まさか、知人がするとは思ってもいなかった。 
だって、お前は銀ちゃんと付き合っていたじゃないか。 

「真紅ぅ。 お店の方には来ないでって言ったでしょぉ。 ……それに、今月の分はもう渡したはずよぉ。」 
「今月は色々と入用なのよね。 いいじゃない、この程度。 それとも、ジュンを独り占めにしたかったのかしら? 
 貴女、昔っからジュンに首ったけだったものねぇ。 ジャ・ン・クの癖に。」 

げらげらげら。 耳障りな笑い声と只ならぬ雰囲気に、店が静まり返った。 
なんだ、この険悪さは。 真吾……いや、真紅の言葉には、明らかな悪意が込められていた。 
銀ちゃんの顔色は固い。 私の知らない時期に、一体何があったのだろう。 ジャンクとは一体どういう事なのか。 
いや、それより。 銀ちゃんが……私を? 私の胸は、年甲斐も無く早鐘を打っていた。 

「ねぇジュン。 そんな汚いものでも見るような目つきは止めて頂戴。 私は自分の心に正直に生きようと思っただけ。 
 私も昔から貴方の事が好きだったのだわ。 見て、私を。 自分と比べて、溌剌としてると思わない?」 

確かにその通りだ。 真紅は私や銀ちゃんよりも、遥かに若々しく見える。 
生に対して貪欲に、生きたいように生きている人間と、生に蹂躙されて意気を喪くした人間の差。 
だが。 とてもじゃないが、私には真紅を好意的に見る事はできなかった。 

「やめろ真吾。 お前と銀ちゃんの間に、何があったのかは知らないが。 それでも敢えて言わせて貰う。 
 お前も一人前の大人なら、人前で銀ちゃんの顔に泥を塗るような真似をするんじゃない。」 

真紅の顔が怒気で紅潮する。 皮肉げに口の端を吊り上げた真紅の顔は、急に40男の素顔に戻ったように見えた。 
やがて銀ちゃんの方に向き直って紡いだ言葉には、どこか哀切が篭っていた。 

「またなの? 銀子。 貴女は私から何もかも奪ってしまう。 もうジュンも貴女のものってわけね。 いいご身分だわ。」 
「真紅……! 違う。 違うわ。 私たちは、何年か振りに再会したばかりなのよ。」 
聞いているのかいないのか。 真紅は宙空に視線を漂わせたまま、懐かしむように続けた。 

「なんだか疲れちゃった……。 ねぇ、純一、銀子。 あの頃は良かったわね。 私がいて、めぐがいて、純一がいて、銀子がいて。 
 何もかもが光り輝いていた。 ずっとあのままでいたかった。 ……なんで人は変わってしまうのかしら。 
 どうして幸せなままでいられないのかしら。 めぐが生きていたら違っていたのかしら。 それとも、現実は変わらなかったのかしら。」 

真吾。 深い哀愁と、ノスタルジーが襲ってくる。 それは、まさしく私の気持ちだった。 おそらく銀ちゃんも。 
思わず手を差し伸べようとして気付く。 真吾の手には刃物が握られていた。 

「しっ、真吾……」 
「お金がね、たくさんいるのよ。 借金で首が回らなくて。 それこそ、本当に内臓売るしかないくらい。 
 それでも何とかしようと思ってたんだけど。 なんだか、もう、どうでもよくなっちゃった。 
 ……貴方と会って昔を思い出したせいかしらね、ジュン。 絆も、過去も、何もかも。 全部終わってしまえばいいわ。」 

恐慌をはらんだ、痛いほどの静寂が店を包む。 私の身体は恐怖ですくんでいる。 
会社を辞めるとも、めぐに会いたいとも思ったが、こんな最期はまっぴらだ。 こんな形で死にたくない。 
逃げ切れるか? 分からない。 いや、それ以前に。 
こんな状態の真吾を残して、銀ちゃんを置いて逃げるわけにはいかない。 ……私が、やるしかない。 

なんとか突きを捌くんだ。 突きを……来た! 無我夢中で手を払おうとする。 
しかし私の手は虚しく空を切った。 フェイント? 熱いっ。 差し出した手から、血飛沫。 ……切られた。 
誰かが悲鳴を上げる。 警察だ! そんな叫びも上がる。 駄目だ。 間に合う訳がない。 
鈍い輝きに魅入られたように、私は動けなくなった。 全てがスローに見える。 真吾の手が、少しずつ私に近付いて……。 

「キャアアアアア! ママ! ママァ! 誰か! 救急車! 救急車を呼んでぇ!」 
何が起こったのか分からなかった。 気が付けば、私は床に尻餅をつき。 眼前には、倒れこむ銀ちゃんの姿があった。 
騒がしくなった店内に、トモエさんの叫び声。 ……。 さっ。 さっ。 刺されたのか。 銀ちゃんが。 私を、庇って。 
放心したように立ち尽くす真吾を、客たちが押さえ込む。 真吾は一切の抵抗もせず、されるがままだった。 

ぎっ、銀ちゃん。 銀ちゃん。 銀ちゃん銀ちゃん銀ちゃん。 銀ちゃん! 
駆け寄って絶望的な気分になる。 腹だ。 どうやって止血しろって言うんだ。 血が、流れる。 流れてしまう。 

「ごめんなさいねぇ、ジュン……めぐの思い出の詰まった、大切な場所だったのに……最期に、こんなオマケを付けちゃった……。」 
「馬鹿っ! 何を言うんだ。 最期なんて言うな。 思い出は思い出だろ。 大切なのは今だ。 銀ちゃんだ!」 

腹の失血は地獄の苦しみだと聞いた事がある。 なのに。 銀ちゃんは、笑った。 

「うれ……しい……。 ねぇ、ジュン、真吾を……恨まないで、あげて。 ……私ねぇ……子供のできない体質だった、の。 
 それに、彼の、言った通り。 真吾と結婚しても、ずっと。 …………ずっと、ジュンの事、が…………好き…………だったの。 
 彼から、子供のある家庭も、妻との愛情も、取り上げて、しま……た。 ぜん……ぶ……私……の、せ……」 

体温は下がって、呂律は回らなくなって。 消えてゆく。 銀ちゃんの命が少しずつ消えてゆく。 
嫌だ。 こんなの嫌だ。 誰か。 誰でもいい。 私はどうなってもいい。 銀ちゃんを。 銀ちゃんを助けてくれ! 

「たすけてなのー。」 
「雛ちゃぁん、何してるのぉぅ?」 
「あっ、のりぃー。 ヒナね、おはなしを書いてたなの!」 
「おはなし?」 
「そうよー。 あのねのね、最近ジュンはヒナにご本を読んでくれるようになったのよ。 
 ヒナはそれがと〜っても嬉しいの。 だから、今度はおかえしにヒナがおはなしを読んであげるのよー!」 
「まあぁ……。」 

なんていい子なのかしら。 文字はよく読めないけれど、その健気さに、思わず頬擦りしたくなる。 
まぁ凄い。 漢字も使ってるわ。 これは、う〜んと……有楽町……かな? 

「雛ちゃん、すごぉい。 むつかしい字も知ってるのねぇ〜。」 
「えへへへへ。 おはなしができたら、のりに一番最初に読ませてあげるねぇ〜。」 

もぉぉ、ほんと可愛いっ。 天使みたぁい。 
どんなお話なのかしら? 雛ちゃん食いしん坊だから、お菓子の家とかかな。 
それともぉ、巴ちゃんみたいな子が出てきて、雛ちゃんと仲良くするようなお話かしらぁ。 
うふふ。 楽しみねぇ。 

「え〜と、ぎんちゃん、おへんじをしてなの〜……と。 まる。」 

かきかき。 雛ちゃんが続きを書き始めた。 それがすっごく楽しそうで、思わず私も八の字まゆげ。 

「うふふふふふ。」 
「えへへへへへ。」 

かきかきかきかき。 桜田家の午後は、今日も平和に過ぎていった。 

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