>>前スレ676 

 薔薇水晶から奪ったローザミスティカを手に、真紅は雪原をふらふらと歩く。 
 虚ろな目で向かうのは、彼女のマスターの所。ジュンの倒れている所。 

 仇を取ってしまった彼女は、抜け殻のようになっていた。 
 全ての姉妹を失い、最も大切な人を失い、それで残されたのは六つのローザミスティカだけ。 
 そう――「だけ」なのだ。彼女のアリスへの拘りは日に日に薄れていた。 
 それは、今、彼女が逢いたいと思っている少年の影響が大きかった。 

 あまりに未熟な彼との日常は、大変でもあり、楽しくもあった。手の掛かる子供ほど可愛いとよく言われるが、まさにそんな感じだった。 
 人は人の成長を助けることで己も成長できる。人の悪い所を見て、己を省みることができるからだ。 
 真紅もジュンを見守ることにより、大きく心が成長した。 
 彼女だけではない。ジュンの周りに居た雛苺、翠星石、蒼星石、金糸雀。多くの薔薇乙女達が、彼と共に成長した。 

 そして、いつも薔薇乙女達の中心には彼が居た。 
 年頃のジュンは表立って見せようとしなかったが、本当に心優しい少年だった。そんな彼だから、人形達も心を開いたのだろう。 

 ジュンをマスターにしてからの生活は、真紅の長い人生の中でも際立って光り輝いていた。黄金時代と言ってもいい。 
 姉妹達とより深く親しみ合い、犬猿の仲だった水銀燈とも一時は話ができるようになった。 
 知らぬ間に、真紅はジュンとの毎日に満足するようになっていた。 
 お父様のためにアリスにはなりたいけれど、姉妹達との生活も捨て難い。真紅はそう思うようになっていた。 

 しかし、楽しかった日々はもう戻らない。 
 残ってしまったのは彼女一人だけ。 
 もう、喧嘩をする姉妹すら居ないのだ。 
 真紅の心は空っぽだった。 

 夢遊病のように歩いていた真紅が立ち止まる。思わぬ人物と出くわしたのだ。 

「アリスゲームを終わりにしましょう」 

 聞き慣れた声に驚いて立ち尽くす真紅。翠星石に倒されたと思っていた水銀燈が、今になって現れたのだ。 
 翠星石との戦い以後、水銀燈は全く姿を見せなかったのだが、それには理由があった。それは、彼女の姿を見れば解る。 

「貴女、その体……」 

 真紅からやっとのことで出た言葉はこれだった。真紅は水銀燈から目を逸らせたくても、それができない。何故なら、彼女の姿があまりにも強烈な執念を撒き散らしていたからだ。 
 水銀燈の姿は壮絶の一言に尽きた。左腕は肩の部分からごっそりと失くし、残った右腕も袖から手が出ていない。服の肘から先の部分がひらひらと風に揺れている。あれでは、髪の手入れもできない。翠星石の捨て身の攻撃により、両腕を失う深手を負っていたのだ。 
 手が使えない状態で戦いを挑むのは自殺行為に等しい。その辺りは、いくら好戦的な水銀燈でも理解できた。 
 だが、戦わなくてはアリスゲームの勝者にはなれない。 
 そこで、彼女はわずかな望みに賭けて、最後の最後まで隠れ通す事にした。ドールズの残りが二体になる時まで逃げ切れば、戦いは一度で済む。その一度に勝利すれば、アリスになれるのだ。 
 それまでにローザミスティカの数に差はついてしまうが、そこは目を瞑るしかない。早期に手負いだと知られ、集中的に狙われるのだけは避けたかった。 

 水銀燈は右、左と喪失した自分の腕を見てから、真紅の思わず出た問いに答える。 

「これねぇ、翠星石にやられちゃったぁ。あのイカレ女、よりによって道連れを謀ってくれたのよ。いい迷惑だわ……!!」 

 初めは軽かった水銀燈の口調も、次第に怒気が含まれていく。よほど、辛酸を舐めさせられたのだろう。最後には歯噛みまでしていた。 
 険しい表情をしていた水銀燈だが、急にはっとなって不敵な笑みを作る。真紅に苦渋の顔は見せられない。こんな姿でも、彼女のプライドは健在だった。 

「でも、残ってくれたのが真紅でよかったわぁ。やっぱり、あなたは私に葬られる運命なのよ。そう思うでしょう?」 

 水銀燈は同意を求め、暗に真紅を責める。 
 ジュンを亡くしたばかりの真紅には、とても厳しい言葉だった。今となっては、水銀燈の気持ちが痛いほど解る。 

「私のジュンも、もう……」 
「ええ、死んだわね。あの子も可哀想に……あっちに転がってたわ。でも、それが何?」 

 真紅の言い訳がましい言葉に、棘のある言葉を返す水銀燈。亡くなった今では、わずかでもジュンに思う所があるようだが、真紅を許す気は毛頭無かった。 
 真紅はそれが悲しくて堪らなかった。水銀燈は、絶望に落ちる寸前に出会えた、今ではたった一人の姉妹なのだ。 

「もう姉妹は貴女しかいないの。私には戦えないわ」 
「戦えない? 馬鹿言わないで。薔薇水晶を嬲り殺しにしたあなたが、よく言えるわねぇ」 

 この期に及んで引け腰になる真紅を水銀燈は笑い飛ばす。 
 水銀燈は遠見の能力を使って全てを見ていた。ジュンを失った真紅が修羅の形相で戦うのを、身震いしながら観戦していた。 
 勿論、その寒気は恐怖からのものではない。それとは全く逆の、歓喜からくるものだった。 
 遠い昔から、水銀燈にとって真紅は目の上のこぶだった。いつも上品ぶって、安っぽい常識を振りかざす真紅が我慢ならなかった。そのくせ、実力は水銀燈に劣らない。真紅とは幾度と剣を交わしても、勝敗は決まらなかった。 
 その真紅が先程の戦いで、水銀燈も唸るような残虐さを見せた。いつも冷静にお澄まししていた真紅が、目の前で化けの皮を剥がしたのだ。これを喜ばずにいられようか。 

「あれは……我を忘れただけよ……」 
「嘘言いなさぁい。見事な戦いぶりだったじゃないの。あれがあなたの本性なのよ。ねぇ、真紅ぅ」 

 水銀燈がねっとりと絡みつくような言葉でいたぶる。その顔は実に嬉しそうだ。 
 すでに力無かった真紅の反論も、これで沈黙した。水銀燈が言う事を完全に否定できなかったのだ。 

 激しい憎悪に支配された中での暴力は、それは甘美なものだった。 
 薔薇水晶の背後から襲った時。腕を折った時。瞳を砕いた時。真紅の脳髄はしびれるような快感で満たされた。あの充足感ははっきりと覚えている。 
 今、姉妹を破壊した感触を思い出しても嫌悪感しか湧かないが、あの時の真紅は別だった。彼女の心の奥底にも、誰もが飼っている悪魔が住み着いているのだ。 

「やめてッ!」 

 己のおぞましい心を理解したくない真紅は、思考を振り払うように頭を左右に振る。 
 それは、水銀燈が望んだ反応そのものだった。否定しようと苦しむ真紅を見て「ふふ」と笑い声を漏らす。 
「今更、何を恐れているの? あなたは私も殺せるはず。そう、めぐの首を絞めたように、あなたは簡単に人を殺せるはず」 
「違うっ、違うの……っ!!」 
「いいえ、違わない。真紅は人殺しなの。私と同じように」 
 執拗になじられ、真紅は親に叱られる子供のようにしか反論できない。大切なものを失いすぎた彼女に、この責め苦は酷だった。 
 思う存分、言葉で真紅を追い詰めた水銀燈は、満足げな笑みを浮かべる。 

「真紅、あなたとなら最後を飾るに相応しい戦いになりそうだわぁ」 

 黒い羽が舞い、戦いの始まりを告げた。 

 真紅は四つのローザミスティカを握り締め、水銀燈の攻撃から逃げ回る。上空から黒い羽が雨のように降り注ぎ、凍った大地に突き刺さる。 
 空を飛ぶ水銀燈に、手も足も出ない真紅。そう見えるかもしれないが、問題の根はずっと深かった。 
 それは、ここにきて真紅の病気とも言える戦闘恐怖症が再発してしまったのだ。 
 真紅は一度はジュンを支えにして立ち直れた。彼を守りたい、彼の期待に応たい、と決意した時、彼女は己を奮い立たせることに成功した。 
 だが、その彼も今は遠い所へと行ってしまった。 
 支えを無くした真紅は、立ち直る以前へと逆戻り――いや、それよりも症状が悪化していた。 
 姉妹やジュンとの別れが相次いだため、以前に増して、彼女は失う事を恐れるようになっていた。 

 こうなってしまっては、薔薇乙女の悲願である父との邂逅も、真紅には見えなくなる。 
 無論、彼女も父とは逢いたいが、その前に立ちはだかる恐怖に足が竦んでしまう。 
 ジュンの存在が大きくなりすぎてしまった彼女を引っ張るには、生みの親の願いを以ってしても不充分だった。 

「真紅ぅ、いつまで遊んでるつもりぃ? ちっとも盛り上がらないじゃないのぉ」 

 水銀燈がおちょくるように文句を垂れるが、真紅にはそれを聞く余裕さえない。 
 着地した水銀燈の翼が蛇のように伸び、真紅を呑み込もうとする。真紅は鈍い動きで羽を避けるのがやっとだ。 
 真紅はローザミスティカの数で上回り、身体にも大きな損傷は無い。圧倒的に有利な戦いのはずなのに、完全に圧されていた。 

 伸縮自在の黒い両翼が、執拗に真紅を追う。 
 水銀燈は二匹の蛇を巧みに操り、じっくりと獲物を追い詰めていく。 
 水銀燈がチロリと舌なめずりした時、獲物が網に掛かった。 
「いやぁっ」 
 悲鳴と共に、真紅が黒蛇に呑み込まれた。 

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 真紅は十字架にはりつけにされたような格好で宙に持ち上げられていた。 
 両手両足が羽の鎖で拘束されたその姿は、いつかの光景を思い起こさせる。あの時も、二人は死闘を繰り広げていた。 

「ローザミスティカちょうだぁい」 

 水銀燈の目が真紅の握られた右手を見る。その手には、薔薇水晶から奪ったローザミスティカが未だに残されていた。 
 途端に、真紅の両腕に圧迫感が走る。腕が強く引っ張られているのだ。 
「いっ……ああ……!!」 
 球体間接がギチギチと嫌な音を立てて軋む。あの時と全く同じ痛みが、真紅の頭にその後に起こった出来事を再現させる。 
 そして間もなく、頭の中の再現が実際に起こる。 
 ブチブチと衣服が破れる音がしたすぐ後、絶叫が響き渡る。 

「――ああっあぁあああああっっ!!」 

 肩から外れた腕が、ゴトリと硬い音を立てて地面に落ちる。外れたのは左腕だった。 
「ごめんなさぁい、間違えちゃったぁ。でも、私も両方無いし、もう一本いいわよねぇ?」 
 水銀燈は意味の無い断りを入れて悦に入る。それに対して、真紅は激痛と恐怖で泣き叫ぶ。 
「う、腕がっ……!! ジュン! ジュンっ!!」 
 必死になって助けを呼ぶ真紅。あの時は、片腕になってすぐ、ジュンが助けに来てくれた。 
 だが、今はそれもありえない。もう彼はこの世に存在しないのだ。 
 それでも、精神的にも肉体的にも追い詰められた真紅は、マスターの名を叫び続ける。 
 それが無駄な行為だと判っている水銀燈だが、以前の苦い思い出に顔を顰める。初めて味わった敗北は、忘れられなかった。 
 水銀燈は喚く真紅を地に降ろし、目の前まで歩み出る。 

「ねえねえ、顔だけじゃなく頭までおかしくなっちゃたのぉ? あの人間は死んだのよ」 
 報復と言わんばかりにありったけの嫌味を詰め込んで、真紅に厳しい現実を教えてあげる。 
「い〜い? 死・ん・だ・の」 
 仕舞いには、一字置きに間を取って、もう一度言い聞かせる。 
 酷い言葉を受けた真紅は、急に黙って静かになった。 

「ジュンは、死んだ……?」 
「そうよぉ。もう忘れちゃったの? あの坊やが本当にかわいそぉ」 

 真紅の脳裏に倒れているジュンの映像が鮮明に映し出される。彼の下に広がる血痕まではっきりと思い出せた。 
 最初にその光景と出くわした時、彼女は怒りで我を失った。 
 しかし、今は違った。身の危険に晒されている彼女は、怒りに染まることはなかった。 
 ジュンの死を正面から受け入れられた真紅は、情けなくて叫びたい衝動に駆られる。 
 マスターを守れなかった。その上、もう二度と見せないと誓った弱い自分を曝け出してしまった。 
 悔恨の念が尽きない真紅だったが、今は悔やんでいる場合ではない。 
 守ると言ってくれた彼のためにも、こんな形では負けられない。 
 真紅の右腕に力が篭る。 

「水銀燈、お遊びはここまでよ」 
「え……!?」 

 鎖となっていた羽が、ひらひらと舞い散る。真紅が自力で手足の拘束から逃れたのだ。 
 様子が一変した真紅に驚き、水銀燈は風に舞う羽を見たまま棒立ちしてしまう。 
 目の前の真紅はすでに手足を自由に動かせる。水銀燈は判断を誤った。 
 真紅はそれを見逃さなかった。残った右腕を一気に振り抜く。 
 ミスに気付いた水銀燈は、慌てて後方に跳んで離れようとする。 
 だが、出遅れは決定的だった。 
 ローザミスティカを握り締めた拳が顔面の中央を強打する。 
 大きく吹き飛んだ水銀燈は、雪の上を何度も転がり滑って止まった。 
「ぐく……っ!」 
 水銀燈は追撃を嫌ってすぐに立ち上がろうとする。肘までしかない右腕だけで懸命に体を起こす。 
 その間に、真紅は手の中のローザミスティカを己の力へと変える。もう、彼女に迷いは無かった。 
 四つの宝石が真紅の胸に吸い込まれ、体内で爆発的なエネルギーが生み出される。有り余る力が、真紅の全身から赤い炎の光を放つ。 

 その様を、水銀燈は尻餅をついたまま眺めていた。 
 圧倒的すぎる。力の差は歴然だ。勝てる訳が無い。 
 一気に、彼女の思考は後ろ向きへと加速する。 
 真紅から溢れ出る力を肌で感じ取った水銀燈は、どうやっても勝てそうに無いのを思い知る。賢い彼女は、それが正しい答えだと解ってしまう。 

 水銀燈にとっては大誤算だった。ローザミスティカの数が、ここまで決定的な差になるとは思っていなかった。そう思っていたからこそ、彼女は最後まで隠れていたのだ。 
 真紅が精神的に復活する前なら、まだ勝ち目はあっただろう。最初に外れたのが真紅の右腕だったら、立場は逆転していただろう。 
 運命は、真紅に味方していた。 

 六つのローザミスティカを手中に収め、現時点で最もアリスに近い存在となった真紅。 
 その桁違いの力を前に、水銀燈は腰が抜けたように動けないでいた。動くにしても、逃げる以外の作戦が思い浮かばない。しかし、真紅が見逃してくれるとは思えない。遊びで済ませるには遅すぎた。 
 打開策を模索する間にも真紅は待ってはくれない。今もへたりこむ水銀燈は、間近に迫ってきた真紅を見上げる羽目になっていた。 
 凛とした青い瞳が、揺れる赤い瞳を射抜く。その青い瞳に、もう迷いは見えない。水銀燈は死を覚悟した。 
 しかし、真紅が出た行動は最初と変わらなかった。 

「これが最後よ、水銀燈。もうアリスゲームはしないと約束して。貴女もこのまま消えたくはないでしょ」 

 どこまでもお人好しな――いや、頑固な真紅だった。 
 アリスまであと一歩の所まで来て、未だにアリスゲームを拒むというのだ。これには水銀燈も開いた口が塞がらなかった。そして、その甘さを胸の内で嘲笑った。 
 真紅の「これが最後」という言葉は嘘ではないだろう。提案を拒めば、この場で水銀燈を始末するつもりだ。生き延びたかったら、嘘でも彼女に従うのが常道だ。 
 これに、水銀燈は不敵な笑みを浮かべて答えた。 

「いいわよぉ。だから、起こしてくれなぁい? 両手が使えなくて大変なのぉ」 

 いやにあっさりと承諾したことを不審に思わない真紅ではない。それでも、相手を信じないことには約束は成立しない。真紅は水銀燈の隣で膝を折って肩を貸そうとした。 
 その時、耳元で水銀燈が囁いた。 

「本当におバカさぁん」 

 黒い翼が別の生き物のように伸び、瞬く間に二人をすっぽり包み込む。真紅はまんまと騙されたのだ。 
 そして、あろう事か、水銀燈は自身も包む翼に火を放つ。羽が青い炎で勢いよく燃え上がる。 
 翼の中で抱き合った状態のまま、水銀燈は囁き続ける。 

「一緒に灰になってくれるわよね? だって、姉妹ですもの」 

 それは、道連れを宣言するものだった。勝つのは無理だと悟った水銀燈は、勝者の生まれない戦いを選んだ。真紅にだけは死んでも勝ちを譲れない。彼女の意地でもあった。 
 青い炎は勢いを増し、ドレスへと火の手を伸ばす。だが、真紅の顔に焦りは見えなかった。なぜなら、彼女の大きな力の前に、火の手が届かなかったのだ。着実に炎に追い詰められていたのは、水銀燈だけだった。 
 真紅は悲哀の表情さえ浮かべて、残った右腕で水銀燈を抱き寄せた。 

「ごめんなさい、一緒には逝けないの。だから、さようなら……」 

 服が焼け、水銀燈は裸同然の姿で抱き締められていた。 
 この散々な結末になっては、彼女も認めるしかない。真紅に敗北したのだ。それも、とても惨めな形で。 
 燃え盛る炎は、彼女の表皮を墨色へと変えていく。もう、焼け死ぬのも時間の問題だった。水銀燈は最後の憎まれ口を叩く。 

「あなたは最低の妹だったわ。このままアリスになれるなんて思わないことね」 
「貴女は最低の姉だったわ。でも、嫌いではなかったのだわ」 
「ふふ、私は嫌いよ」 

 ふっと笑った水銀燈の全身から力が抜ける。その笑みは、何を意味しているのか。思いのほか安らかな寝顔の彼女は、真紅の腕の中で粉々の灰になった。 

 真紅はアリスゲームを勝ち残った。 
 全てのローザミスティカを集め、アリスに生まれ変わる権利を獲得した。 
 しかし、彼女はすぐにアリスになろうとは思わなかった。アリスになる前に、逢いたい人がいたからだ。その人とは、真紅のままの姿で逢いたかった。 

 硬い雪を踏みしめて歩く真紅の目に、大切な人の姿が入る。 
 それは、遠くで倒れているジュンの亡骸だった。 
 やはり、彼は倒れたまま動かない。 
 馬鹿げているかもしれないが、彼女はほんのわずかでも期待を抱いていた。 
 もしかしたら夢だったのかもしれない、と思っても無理は無い。現実があまりに酷い悪夢のようなのだから……。 

 真紅はどうしようもならない現実を目の当たりにし、ここで初めて涙を流す。 
 際限無く溢れる涙と共に、どこか冷めていた感情が熱を帯び始めた。 
 真紅はジュンの元へと駆け出した。 

 間近でジュンを見た真紅は、一目で彼の死を理解した。 
 背中にある深い刺し傷。おびただしい量の出血。白い顔。全ての事実が死亡を物語っている。 

「貴女は幸せそうね……」 

 抱き合うように倒れていた金糸雀を見つけ、こんな状況でも真紅は羨ましく思えた。 
 できるなら、ジュンと一緒に最期を迎えたかった。こんなことを彼に言ったら怒られるだろうか……。 
 ふと、そんなことを考えてしまった彼女は、それが叶わない願いだと気付いて余計に悲しくなった。 

 真紅は右腕一本で苦労しながら、覆い被さるジュンを仰向けにし、二人を並べて寝かす。金糸雀の衣服には血がべったりと付き、紅に染まっていた。 
 それを見て、真紅は再び金糸雀と自分を取り替えてしまいたくなった。真っ赤な服が自分と重なる。 

「馬鹿ね、私……。こんなのが幸せなわけないわよね」 

 真紅は自嘲し、金糸雀の寝顔を見る。 
 そう言いながらも、その安らかな寝顔が幸せそうにしか見えなかった。 

 ジュンのきれいな死に顔を見つめたまま、真紅はかかしのように突っ立っていた。彼の死は理解している。それでも、別れが惜しくて離れられなかった。 
 そのまま、映画を二本は見終えることができる程の時間が経過した頃、彼女を見かねてこのフィールドに新たな客が入り込む。 

「まずはおめでとうと言っておきましょう。あなたがアリスゲームの勝者です。第五のドール」 

 ジュンの遺体を挟んで、真紅の前に突然現れたのは、ラプラスの魔だった。ウサギ顔のつぶらな瞳がぱちくりと瞬きする。 
 祝いの言葉を貰った真紅だが、彼女の顔は怒りで歪んでいた。 
 彼女が怒るのも当然だ。アリスゲームの開始を決定付けたのは、このウサギの発言だったのだ。真紅をミーディアム殺しの犯人だと言い出したのはラプラスの魔なのだ。 
 真紅はラプラスの魔を探していたのだが、アリスゲームでそれどころではなかった。それが、今になってひょっこりと現れたのだ。真紅のはらわたは煮えくり返っていた。 

「どうして嘘を吐いたの! 貴方が犯人なのでしょッ!!」 

 珍しく真紅が感情に任せて怒鳴り散らす。 
 彼女は無実だった。ラプラスの魔は薔薇乙女達に嘘を吹き込んだのだ。 
 ウサギがどう返答するのか見ものだ。真紅は睨んで凄みを利かせる。だが、ラプラスの魔の態度に変化はない。普段どおり、人を馬鹿にしていると思えるほど落ち着いている。 

「虚偽は私の美徳に反します。ですから、あれは私も本意ではなかったのです」 

 ラプラスの魔は偽証を認め、犯行を否定しなかった。これは、真紅の言葉の全面肯定に等しい。 
「貴方がやったのね」 
 真紅が追求すると、ラプラスの魔は悪びれもせずに訳を話した。 

「あの方のご意向には背けません。あしからず」 
「あの方?」 
「はい、あの方です。あなたのお父様ですよ」 

 真実を知った真紅は、足場が崩れ落ちるような感覚に襲われた。 
 あのお方の意向。あのお方はお父様。お父様がラプラスの魔に指示を出した。 
 これらの情報が導き出す答えは一つしかない。それは、薔薇乙女の真紅が信じられるようなものではなかった。 

「嘘はよしなさいと言ったはずよ。お父様がそんなこと……」 
「嘘は好まないと私も申したはずですが」 

 ラプラスの魔が嘘を吐いているようには見えない。 
 真紅は混乱して取り乱してもおかしくない状態だった。何が真実で何が嘘なのか分からない。 
 アリスゲームが終わり、ジュンを亡くした今、彼女が身を寄せたいと思える相手はお父様だけだ。そのお父様が、真紅をここまで追い込んだ本人だとしたら? 
 全てを知った真紅は本当の孤独に襲われかけていた。 
 寒くて震えそうな心が、温もりを求める。自然と真紅の瞳は、静かに眠るジュンの顔へと向けられる。 

 逢えないお父様のことはわからない。 
 でも、私には絶対に信じられる人がいる。全てをなげうって守ってくれた人がいる。 

 真紅はわずかな希望に賭けてみる決心をした。 

「さあ、あの方はアリスの誕生をお望みです。今こそ、ローザミスティカを一つに!」 

 ラプラスの魔が両腕を大きく広げて高らかにアリスの誕生を促す。 
 真紅はその声を合図に、右手を胸元に押し当てて瞼を閉じた。掌の中には、水銀燈が残した最後のローザミスティカが。その輝きは、胸の中へと消えていった。 
 全身が神々しい光を放ち、アリスの誕生を予感させる。ついに、全てのローザミスティカが揃ったのだ。 
 身体が焼けるように熱い。大きな変化が始まろうとしていた。真紅がおもむろに瞼を上げる。 

「ラプラスの魔、お願いがあるの」 
「なんでしょう」 
「もし、貴方がお父様と会うことがあったらこう伝えて。わがままな娘でごめんなさい、と」 
「なぜ、そのようなお願いをするのでしょうか……?」 
 ラプラスの魔は依頼の意味が解らなくて首を傾げる。アリスとなった彼女なら、ローゼンと対面できないはずがない。彼女は父親と会いたくないのか。 
「私はお父様と会えないからよ」 
「おっしゃっていることが分かりません。あなたはアリスになられるのですよ」 
「私はアリスにはなれない。こうするから――」 
 真紅の胸に置いてあった手が、ドレスを突き破ってズブズブと沈んでいく。まるで、手と胸が同化していくようだった。 
 ラプラスの魔は、その一部始終を興味津々と眺めていた。彼には何を考えているのか分からないところがある。 

「なにをするつもりですか?」 
「私の命をジュンに与えるの」 
「お父様が悲しまれますよ」 
「今は……このローザミスティカをジュンのために使いたいの」 
「はたして、うまくいくでしょうか」 
「わからないわ。でも、私はジュンに生きて欲しいの」 

 淡々と問答を済ませたラプラスの魔は、真紅の意志の固さを知ってやれやれと首を振る。止める気はないようだ。 
 真紅が胸に刺した腕を引き抜く。その手には、一つの宝石となったローザミスティカが。その輝きは、どんな至宝でも到底及ばないと思わせるものだった。それほどまでに、薔薇乙女達の命は美しかった。 
 ローザミスティカが手を離れ、ジュンの心臓へと吸い込まれる。 
 それを見届けた真紅は、よろよろと覚束ない足取りで彼の元へと向かう。 
 そして、力尽きた彼女はジュンの胸へと倒れこんだ。 

「お願い、ジュン。私の居場所になって――」 

 真紅はささやかな願いを口にして永い眠りに就いた。彼の胸の中で生き続けることを夢見て……。 

 街路樹の木漏れ日がそよ風に揺れる。人がまばらな通りを、その少女は歩いていた。 
 白のサマードレスに白の帽子。そして、白の靴。純白で統一された少女の姿は、人の目には眩しかった。単に太陽の光で眩しいだけなのだが、少女を見た人は誰もがそうとは思わなかった。 
 彼女を見た人は、男女を問わず全員が一目で釘付けになる。別に、少女の容姿が特別に美しい訳ではない。確かにきれいだが、彼女より美しい女性なら、それほど珍しくもないだろう。 
 それでも、誰もが彼女を美しいと思えてならなかった。常識では測れない特別な何かが、その少女にはあった。 

 少女が艶のある黒髪を風になびかせて歩く。すれ違う歩行者は足を止め、時を忘れたようにその後姿を眺める。決して、話しかけようとする者はなかった。完璧なまでに美しいと思えたものを、汚してしまいそうだから。 
 そんな中、白の少女を見つけて追いかける者が一人いた。セーラー服の少女が手を振って駆け寄る。 

「桜田君っ」 

 白の少女が振り向いた。 

おわり 

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終わったぁ〜。長かったぁ〜。 
気が重くなるようなお話に付き合っていただいてありがとうございます。 
ちょっとダークな感じにするのは、初めから決めていたんですよ。 
だから、ミーディアムがことごとく碌な目に遭わないこの終わり方もありかなと。 
この先のジュンが心配です(無責任なw) 
ともかく、最後まで書けて一安心です。 
ありがとうございました。 

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