その年の冬は訪れが早く、晩秋には雪が降り出した。
大地が霜に覆われる季節の訪れとともに、元治は体を壊し入院した。
老いは誰にも止められない。
そんな元治を心配そうに見舞う翠星石。
「おじじ、大丈夫ですか、どこか痛いですか?何かして欲しい事はないですか?」
元治とマツは、そんな翠星石の気遣いに感謝していた。
「大げさな事じゃないから、そんなに心配しないでおくれ」
老いぼれた夫婦を気にかけてくれるのは、世界で彼女だけになってしまった。
いや、もう一人彼女の妹がいるのだが、どこに行ってしまったのかさっぱり音沙汰がない。
夫婦にとっては、その安否だけが一番の気がかりになっていた。
お見舞いに来た翠星石に、それとなく尋ねた蒼星石の行方。
「きっともうすぐ帰って来るです…だからおじじは元気になって待ってるですよ」
そう言って彼女は寂しそうに困惑するだけだった。
「せめてもう一度、一樹に会いたいものだ」
元治はそう、誰に語るでもなく呟いた。
翠星石の気持は複雑だった。
いま、この瞬間に蒼星石に会わせてあげられたら、どんなに二人は喜ぶだろう。
しかし、誰よりも蒼星石に会いたいと願っていたのは彼女だったかも知れない。
彼等を喜ばせたい一心から、翠星石は悲しみを胸に押し込めて、ジュンに一つの計画を提案し、協力を求めた。
「寒い季節に心温まる話を持ってゆくのです。そうすればきっと体だって良くなるです」
「お前、僕に蒼星石の名前で手紙を書けって言うのかよ…」
「だーいじょーぶですぅ、妹の癖は姉である翠星石が一番良く知ってるですから絶対ばれねーですよ。
ジュンは大船に乗った気で協力するです」
「おい、そういう事じゃなくてだな……」
それは、ほんのちいさな思いやりだった。
『前略、マスターへ。……』
不器用なやさしさが込められた手紙は、元治たちの下に届けられ、彼らの慰めとなった。
この手紙によって、彼らの心はどれだけ癒されただろうか。
こうしてジュンと翠星石による、手紙の病気見舞いが始まった。
「おじじ、蒼星石からの手紙を持ってきてやったです」
新しくしたためた手紙を持って、翠星石は元治の病室を訪れた。手紙はこれで何通目になるだろうか。
『前略、マスターへ。……』
元治は、手紙を一通り読み終えると、何度も最初から読み直す。
それを傍から見て微笑む翠星石。そんな光景が繰り返されて1ヶ月が過ぎようとしていた。
病床にて蒼星石安否を心配する元治の症状は一向に良くなる兆しを見せない。
「そうか、かずきは元気にしておるのか…」
そんな言葉を聞くたびに、本当のことを隠している翠星石の心は傷むのだった。と同時に羨ましいとも感じていた。
翠星石は蒼星石が帰って来ないことを知っている。
故に、素直に待ち続ける元治に、彼女は少し嫉妬していたのかもしれない。
『もう蒼星石は帰ってこないです』……その一言がどうしても言えなかった。
『おじじになにかあったら、蒼星石に申し訳が立たないです』
そう思って元治達の事をあれこれ心配してはいるものの、
本当は翠星石も、蒼星石がいない寂しさを紛らわせていたのかも知れない。
こうした彼女の思いとともに、もう一通、もう一通と蒼星石の便りは増え続けていった。
「チビ人間見ぃつけたですぅ〜!」
翠星石は下校途中のジュンを待ち伏せていた。
ジュンが巴と一緒だった事にムッとして、急いで彼女から引き離す。
少々ぷりぷりしながらも、早速ジュンに協力を強要する。
「チビ人間と翠星石は一蓮托生呉越同舟なのですぅ、さぁ、とっとと家に帰って手紙を書くですぅ」
「お前、言葉の意味を分かって言っているのか?」
「ジュンはあんな女とイチャイチャしてる暇なんかないのです!そんな暇があったら翠星石に付き合うです!」
「イチャイチャって…あのなぁ、お前……」
「おじじの病気はきっと治してみせるです。だからジュンも頑張って協力しやがれです!」
ぐいぐいとジュンの袖を掴んで家路を急ぐ。
はやる気持から赤信号に気付かずに、翠星石はジュンを交差点に引っ張り出す。
突如鳴り響く急ブレーキのけたたましい悲鳴。
「さ、桜田君、大丈夫!?」
驚いて駆けつけた巴に付き添われ、ジュンは救急車で病院に搬送された。
こんな時、翠星石は自分が無力だと痛感せざるを得ない。
巴が近くにいなければ、事故の対応さえする事が出来ずに、きっと呆然とするだけだっただろう。
どうしていいか解らずに蒼ざめる翠星石。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだから…」
と言いながらも辛そうな表情を浮かべるジュンの右手は、血の気が失せて妙な方向にひしゃげていた。
その夜、ジュンに謝りに行った翠星石は、それから元治の心の中を訪れた。
おじじの心の樹さえ治すことができれば、きっと元気になる。それが彼女にできる唯一のことだった。
だが、翠星石が元治の心を覗いた時、既に心の樹は枯れかけていた。
生い茂る枝葉とは裏腹に、根元はそれを維持するだけの能力を失っていたのだった。
庭師の彼女は、それがその樹の寿命だということを瞬時に悟った。
「そんな…そんなのダメです!」
ジョーロを取り出した彼女は、瀕死の樹に手当てを施し始める。
「おじじにはもっと幸せを見つけて欲しいです」
しかし、いくら努力しようとも、樹の生命力は快復することがなかった。
決められた時の中で生きる者に必ず訪れる生命の終焉。それは逃れられない運命なのだ。
懸命に樹を救おうとする翠星石、しかし、どうにもならない現実が彼女をひどく落胆させた。
「こんな時、蒼星石さえいてくれれば…救えるかもしれないのに…」
その時、翠星石は、何故か懐かしい手に抱かれた様な気がした。
ふり返る翠星石に『もういいんだよ』と誰かが語りかけた様な気がした。
明け方、ふと目を覚ました元治は、傍らに看病疲れで眠るマツを目に止めた。
「ばあさんや…夢をみたよ。明日、一樹が帰ってくると言っておったよ。
もう待たなくても良いと言ってくれたよ。ばあさんには面倒をかけたね…」
「ジュンー!お願いです、あんなおじじ見てられねーです、後生ですから一通だけでも書いてくれですー!」
「無理言うなよ、それよりも、いつまでこんな事続けるつもりなんだよ」
翌日の午後、右腕を骨折したジュンがギブスを巻いて帰ってきた。
翠星石もジュンを酷い目にあわせてしまって申し訳ないとは思っていた。自分が酷い事を言っているとも理解していた。
でも、彼女が頼りにできるのはジュンしかいなかったのだ。
「いつまででもです、いつまでもいつまでも…おじじが良くなるまで続けるです!」
「ねーちゃんに書いてもらえよ、僕には無理だ」
「それじゃ代筆だってばれるです、チビ人間の字じゃないとダメなのです!」
ジュンだって書ける物なら書いてあげたいと思っていた。それは翠星石も重々承知してはいるのだが、
日に日に生気を失って行く元治を目のあたりにして、居ても立ってもいられなかった。
元治は病床で蒼星石の便りを、心の支えにして待っている。
だから彼女は、例え嘘でもその願いを叶えてあげたいと、必死だったのだ。
「もうチビ人間なんかに頼まねぇです、おじじに何かあったらチビ人間のせいです!」
ジュンの態度に業を煮やし、彼女は夕暮れの街に飛び去っていった。
「やっぱり、翠星石には蒼星石の代わりは無理なのかな…」
あても無く街をさ迷いながら、元治の事をぼんやり考えていた。
翠星石は途方に暮れていた。非力な自分が悔しかった。
どんなに頑張ってみたところで、容姿が似ているだけでは埋まらない溝の存在を、嫌と言う程感じさせられていた。
だけど、だからといって、諦める事など出来はしない。
「そんな事はねぇです、こうなったら自分で何とかしてみせるです!」
不安を払拭するように、そう自分に言い聞かせると、彼女はその夜遅くまで手紙を書き綴った。
時が止まったかのような深夜の白い病室に、廊下から聞こえてくる足音だけがこだましていた。
やけにはっきりとした意識の中で、元治はその足音の主人を待っていた。
やがて病室の扉が音も無く開くと、扉の向こうに青年が現れた。
彼は元治を見つけ、静かに彼に語りかける。
「ただいま。おとうさん」
それは紛れも無い、元治の一人息子、一樹の姿だった。
記憶の中の一樹が、夢にまで見た自分の息子が今、目の前に立っている。
全ての重荷から解放された様な表情を青年に向けて、元治は目を細めた。
「おかえり、一樹……ようやくおまえに会う事ができたのか」
そして、青年の右腕に抱えられた人形の懐かしい笑顔が、元治の目に写る。
「そうか…蒼星石や、君が連れてきてくれたんだね」
蒼星石は照れた様に微笑んで元治を見つめている。
元治は久しく忘れかけていた笑顔の作り方を思い出していた。
「長い道のりだったよ…一樹、もっと良く顔を見せておくれ…」
眩しい青年の笑顔、ありのままに、あの頃の様に。
「帰りましょう…おとうさん。僕達の家へ」
一樹と蒼星石の手が、元治に向かって差し出される。その手を握る彼の頬に熱い涙が伝った。
万感の想いを込めて、彼はゆっくりと目を閉じた。
『そうじゃよかずき、わしはずっとお前達に会いたかったんじゃよ。わしは、わしは……』
「とても安らかな寝顔でしたよ。いったいどんな夢を見ていたんでしょうかねぇ…」
翌朝早くにやって来た翠星石に、マツは元治の死を告げた。
遺体は既に運び出され、この部屋にもう彼はいない。
翠星石の手から手紙がはらりと落ちた。
彼女の努力は実らず、彼は蒼星石の思い出と一緒に去って行った。
元治を励すために翠星石が懸命に書い手紙は、もう永遠に届かない。
永遠の様な一瞬、朝の静寂の中で、昨日までの出来事が翠星石の脳裏をよぎって流れて行く。
やがて、いつか伝えようと思っていた本当の事を、彼女は告白した。
「おばあさん、聞いて欲しいです…じつは、蒼星石は…」
もう遅いかも知れないけれど、言わなければきっと後悔する。
その事実をただ黙って聞いていたマツは、謝りながら話し続ける翠星石をそっと抱き寄せる。
「本当は解っていたのよ、あの人も私も。でも、もしかしたら…って思っていなかった訳じゃないわ」
二人は嘘だと知りながら、それでもやはり、彼女が自分たちを思い、手紙を書いてくれた事が嬉しかったのだ。
「翠星石ちゃんだって妹を亡くして辛かったでしょうに…
あの人に夢を見せてくれてありがとう。だから、悲しまないでおくれ」
マツの腕の中で、黙って俯く翠星石の肩は悲しみに震えていた。
「そんな…そんな約束なんて、できねぇです…」
彼女の瞳から涙がこぼれだし、いたたまれなくなって病室から飛び出した。
翠星石の去ったがらんとした病室の中で、
マツは彼女の落としていった手紙を開き、元治の居ないべッドに向かって語りかける。
「おじいさん、私達の娘は本当に優しい子でしたねぇ…」
そして、翠星石の想いのこもった手紙を、シーツの畳まれたベッドの上にそっと乗せた。
『どうか、げんきになれますように』
お世辞にも上手いとは言えない文字の中に、彼女の飾らない心が綴られていた。
いつしか外は雪が降り出していた。
ジュンは無言で戻ってきた翠星石を心配し、事の顛末を察して歩み寄る。
彼女は庭先に立ち尽くしながら、ずっと舞い落ちる雪を眺めていた。
「もう中に入れよ…さむいだろ」
翠星石は振り帰らずに、ただ、枯れ木を飾る雪を見続ける。
「冬は嫌いです、雪は植物達には無情すぎるです…」
ジュンは黙って彼女に降りかかった雪を払い落とし、自分の上着でそっと包む。
「チビ人間…恨むです」
翠星石は素直になれなかった。
今、ジュンに優しくされてしまったら、叶わなかった願いの全てを彼のせいにして、
思いっきり泣いてしまいそうだった。
ジュンになら、それは許される甘えだったかもしれない。でも、自分が抑えられなくなりそうで怖かったのだ。
「手紙、間に合わなかったです…」
「…ごめんよ、僕は…」
翠星石は寂しそうに振り向くと、小さな声で精一杯の言葉を口にした。
「ジュン…お願いです、翠星石を一人にして欲しいです…」
「……恨んでなんかいないです。むしろ感謝してるです。でも…今は」
ジュンの去った後、舞い落ちる雪を両手に受けながら、翠星石は本当の気持ちをつぶやいた。
雪の結晶は、彼女の落とした涙の雫に混ざりあい、ちいさな手のひらで溶けて消えてゆく。
庭先に立ち尽くす翠星石をいたわるかのように、
雪は静かに、終る事の無いワルツを奏でながら降り積もってゆく。
「辛い…辛いですよぉ……蒼星石ぃ……」
記憶の中の愛する人たちを思い続けながら、ジュンの温もりが残る上着を引き寄せて、
込みあげてくるせつなさに耐え切れず、翠星石は暗い空に向かって号泣する。
溢れ出す思い出が、彼女の胸に傷みを刻んで、涙が止まらなかった。
その心を癒そうとするかのように、雪はゆっくり、ゆっくりと翠星石を包み込んで、世界を白く変えて行く。
悲しみは時を経て、いつか空へと昇って行くものだから…と。
凍った世界を風が吹き抜けてゆく。
春はまだ遠く、いまだ雪は降り止まない。