僕はためらいなく包丁を振り下ろす。 
刃先は簡単に肉へとめり込み、血翔が眼鏡に飛び散る。 
途端、甲高い絶叫が響いた。 
耳を塞ぎたくるような叫びが途切れた後、僕は包丁を引き抜く。 
一撃で仕留めれなかったことを後悔するあたり、今の僕は自分でも恐ろしいぐらい冷静だ。 
ふと考える。 
何故、こんなことになってしまった? 
先程まで熱にうなされていた思考がゆっくりと覚醒を始め、回想する。だが思い浮かぶのは二重、三重に塗りたくられた黒い記憶だけ。 
自然と口の端が吊り上るのが分かった。 

最初から不思議がる必要はないのだ。 
ただひとつ、理解しているのだから。 

そう、 

僕は狂っている。 

「やめて     ! お願い……! こんなの、間違ってる……!」 
 足下を無様に這いずり回る『それ』は、僕に墾願する。 
「     を信じて……また、きっと元通りになるから……!」 
『それ』が伸ばした両手は僕を求めるように空気を掴む。 
『それ』が動くたびに赤黒い血溜りは大きさを増していく。 
僕が侮蔑といっていい態度で鼻を鳴らし睨みつけても、めげることなく芋虫のようにズリズリと近づいてくる。 
やがて僕が冷やかな視線で見下ろしているのに気づいたのだろう、『それ』は何を勘違いしたのか穏やかな笑みを浮かべ、小さく呟いた。 
「大丈夫。     はずっと、     と一緒だから……」 

不快だ。 
たまらなく不快だった。 
殺意と嫌悪が混じり入った感情が僕を支配する。 
こいつは殺す。殺してやる。 
だから僕は再び腕を振り上げて、『それ』の首元に包丁を突き入れた。 
何度も何度も執拗に切り裂き、突き刺し、返り血を全身に浴びながらも僕の腕が止まることはない。我を忘れて斬って斬って斬り続け、響き渡る断末魔がようやく僕の耳に届いたときには、僕の全身は『それ』の返り血で真っ赤に染まっていた。 

「……」 
 鼻腔をくすぐる生臭い匂い。指先に感じる温かい他者の血液。 
まるで夢をみているのかのような浮遊感と気怠さ。 
常人なら眉を顰めるような惨状も、今の僕には心地よかった。 
だから苦痛を感じなくなった『それ』を見ても感慨に浸ることなく、僕は落ち着いて包丁についた血糊を自分のシャツでふき取る。 
丁寧に汚れをとり、目上にあげた包丁は僕のしでかした狂気を物語るように鈍く光を反射し、やがて力なく手から抜け落ちた。 
床に突き刺さった包丁に目もくれずに、僕は『それ』の横を通り抜けて居間にいき、ソファーに緩慢とした動作で座り込む。 
同時に、どっと疲れが押し寄せた。 
無我夢中に包丁を振り回している時には気づかなかったが、思っていたより神経をすり減らし、酷使していのだと実感する。 
僕の肩から力が抜けた。 
睡魔が意識を濁らせる。瞼が重く、目を開けるのもままならない。 
夢と現実の狭間を彷徨う僕は、いつしか深い眠りに落ちていった。 

次に目覚めた時、視界に飛び込んできたのは窓から射し込む夕日に彩られた燈色の世界。 
あれから何時間たったのだろうか、いつのまにか日は沈みかけている。 
相変わらず生臭い匂いは身体からは消えないが、夕日のおかげで室内中に飛び散る血は目立たない。 
それだけでも僕は幾分、気分を落ち着けることが出来た。 
もし目を開けたとき、壁や床にこびり付いた血跡を目の当たりにしたら、僕はとても平静ではいられない。きっと悲鳴をあげていただろう。 
叫べば当然、周囲の住人が不審に思うはず。もしかしたら余計なお節介で通報するかもしれない。 
だからこの住宅街で僕は静かに息を潜める。 
何故なら僕は、今やれっきとした人殺しなのだから。 

罪の意識がない、と言えば嘘になる。だけど僕は自らが行った凶行を後悔はしていない。 
あの時、『あれ』を殺さなければ僕は僕でいられなかった。 
自己喪失を抑える術はそれしかなかったのだ。 
殺意と憎悪に導かれ、たどり着いた結果がこの有様。 
僕はここまで追い詰めた奴等はさぞかし僕を嗤っているだろう。腹立たしいことだが、だからといって今の僕に奴等を皆殺しにする気力もなければ覚悟もない 

すべてに嫌気がさした僕は、大きく溜息をついて天井を仰いだ。 
「もう、疲れたよ――」 
 独りで呟いて、僕は自嘲しながら目線を下ろした。 
日は完全に沈み、闇が侵食する居間。 
いつのまにかそこには、その場にはあまりに不似合いな白が佇んでいた。 
それは紛れもない少女。 
いったいどこから入ってきたのか。そんな野暮な疑問も掻き消す魅力が、彼女にはあった。 
頭から足の先まで無垢な白に身を包み、その肌は触れば汚してしまいそうな、新雪を思わせる美しさ。 
瞬きをするのも忘れた僕を、色のない瞳が射抜く。右目を隠す薔薇の眼帯さえも、彼女の神秘性をかきたてる要素になっていることに僕は敬服するしかなかった。 
「――君は、誰だ?」 
 まともな思考力を取り戻し、ようやく口から搾り出せた言葉はたった一言だけ。 
それ以上は何も言えず閉口した僕を、少女は左目だけでじっと見つめ、やがてその薄い桃色の唇を開いた。 
「あなたはだれ?」 
 彼女の言葉は、僕の言葉を繰り返しただけのもの。 
質問の答えにはなっていないが、僕はそのことを追及することはせず、素直に少女の問いに答えてやることにした。 
「僕は……誰だろうか。 思い出せない。 いや、思い出したくないのかもしれない」 
 小首を微かに傾げえる少女に悪い気がしつつ、僕は顔を伏せた。 

「ごめん、君の質問には答えられそうにないよ」 
 そんな僕を意外そうに眺めてから、くすり、と目の前の少女が可愛らしく笑う。 
幻想的ともいえるその微笑に呑まれ、僕は驚きを隠すことが出来なかった。 
少女は僕の戸惑いを見透かしたように片目だけで見つめ返す。 
「あなたと私は、とても似ていますね」 
「僕と、君が……?」 
「ええ、そっくりです」 
 か細い白い手が僕の頬にそえられる。一瞬、その冷たさに体が震えたが、それよりも彼女が実在することを確信できたことに、僕はなによりの安堵を感じていた。 
「自分の居場所を見失ってしまった迷子。 どこに還ればいいのかも分からず、ディラックの海を悠久に彷徨い続ける」 
「……?」 
「――私と一緒。 本当に、可哀想な人」 
目を細めた少女が慈愛に満ちた言葉を投げかけた。 
この子の言っている事は理解できない。僕の知識からは飛躍した、聞いたこともない単語を並べられ、僕は肩を竦めるしかなかった。 
それにしても―― 
「迷子って……もしかして君はずっと独りなのか?」 
少女が頷く。 
「ですが、お父様はおっしゃいました。 すべては噛み合う歯車のようなものだと」 
「分かりにくい例えだ。 君のお父さんは物事を遠回しに言うのが好きなのかな」 
 彼女の微笑みが見たいがために、僕は冗談をまじえて訊ねる。 

「ふふふっ……本当に可笑しい人」 
 これほど穏和な表情を浮かべれる者が、この腐った世界にどれほどいるのだろう。 
今まで繕った笑顔ばかりを目にしてきた僕にとって、それはとても新鮮なものであり、曇った心が洗われていくのを感じた。 
「歯車というものは一度噛み合ってしまえば、その回転が止まることはない。 廻りに廻って、必ずまた巡り合うことができる。 だから、私は待ち続けているのです」 
「信じているんだね、お父さんを」 
「創造主を信用できない者は、この世界にいませんよ」 
 彼女はなんて純真なのだろうか。 
この世は裏切りに満ちているというのに。 
「あぁ、そういえば――」 
頬にそえられた白い手の上に僕は自らの手をそっと重ね、微かに震えた彼女の指先を優しく包み込む。 
強く握り締めれば壊れてしまいそうな不安に駆られる。 
それほどまでに彼女は儚く頼りなかった。 
「君の名前を聞いてなかったな」 
 今更、かな。と続けた僕を、彼女はたしなめることなく優しく受け入れてくれた。 

「私の名前は雪華綺晶。 誇り高き薔薇乙女の第七ドール」 

続く 

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