とある深夜。消灯後の有栖川大学病院の裏手、まばらな林の中。 
同院の旧礼拝堂は、十階建ての病棟に月明かりを隠され、静かな暗黒に飲まれた。 
その物陰にひとり潜む少年は、病棟に向けた首を上下左右に回していた。 
敷地内の廃墟である。人間の居る場所でも、居てよいという場所でもない。 
周囲は雑草が生い茂り、蔦の絡まった白い漆喰はあちこちひび割れ、 
ステンドグラスがはめ込まれていたはずの窓は、ぽっかりと深い闇を覗かせていた。 
少年は、着衣こそスータンにローマンカラーというカトリック聖職者のそれだが、 
彼がそこから病院をのぞき見ることを許される理由になるだろうか。 
いや、整えられた髪も、清潔そうな肌も、言い訳にはなるまい。彼は不審人物だ。 
もっとも、薄気味悪い深夜の廃墟を監視している者はまずいないだろうし、 
病院内から、暗がりに溶け込んだ彼の姿を見付けることは困難だ。 
逆に、少年からは、病棟内部のほのかな非常灯すら輝いて見えた。 
そして、七階か八階か、とにかく高い位置に並ぶ窓の一枚が開き、 
そこから白い人影が身を投じた瞬間も、少年聖職者の目ははっきり捕らえていた。 
入院患者だろうか。その人物は三〇メートル余の高さから、植樹の向こう側に姿を消した。 
少年はしばらく、幽霊でも目撃したかのような青白い顔で、開いたままの窓を眺めていたが、 
まさか、とつぶやいて礼拝堂の陰から飛び出した。 
飛び降りたのが人間ならば、例え息があったとしても、落下地点に横たわっているはずだった。 
しかし、法衣のすそを乱して駆けつけた少年は、二本の足で立つ入院着姿の少年に遭遇し、 
再び目を剥いた。二人の少年は互いを見知っていた。 
「弟さん!?」 
「待ってろって言っただろ。あいつに見つかる」 
入院患者風の少年は、礼拝堂に黒縁眼鏡を向けたままぶっきらぼうに言い放つと、 
石畳のアプローチをぺたぺたと素足で通り過ぎ、裏の林へ入って行った。 
ばさばさの髪の頭に包帯を巻き、入院着の下から医薬品の臭気を放っていたが、 
その足取りに負傷の様子はなく、神父風よりも幼い横顔の血色は良かった。 
「いや、でも、ジュン君の方が目立ってましたよ」 
彼の常軌を逸した行動以外に、外見上の特異があるとすれば、左手から垂れた金色の……。 
しかし、いつの間にか、それは最初から存在しなかったかのように消え去っていた。 
「クン? 馴れ馴れしいぞ、お前」 
患者風にとがめられ、神父風はどもりながら「すみません」と謝り、入院着の背中を追った。 
年齢と立場の上下関係は、必ずしも一致しないということだろう。 
「あの、ケガの方はもういいんですか」 
年長の少年は控えめに敬語で尋ねたが、年少の方はそれを黙殺した。 

第1話 案内人 die Empfangsdame 

二人が向かった先は、やはり例の礼拝堂だった。 
固く閉ざされた両開きの木戸の前で、ジュンと呼ばれた少年が後ろを振り返った。 
「鍵」 
「あ、はい」 
神父風は慌て気味に駆け寄って、閂の南京錠に鍵を差し込んだ。その腕の震えは背徳のためか。 
軋んだ音と共に開放された門を潜り、素足とスニーカーが、床に積もった埃を踏んだ。 
ほとんど視覚の利かない黒い冷気の中で、ジュンはにやりと口の端をつり上げた。 
「臭うな」 
その言葉に対し、神父風は少し考えてから応えた。 
「近く取り壊すと言っても、神聖なチャペルですよ。善良な霊ならともかく、悪魔なんて……」 
しかし、ジュンは年長者に耳を傾ける様子もなく、先に進んで行ってしまった。 
ぼんやり浮かび上がっていた入院着の白は、たちまち暗闇にかき消された。 
「おい。電気は点かないのか」 
「無理言わないでくだ……うわっ!」 
そのときである。どこからともなく薄紫の燐光が出現し、青銅の聖母像を照らし出した。 
まるで、横柄な少年の要望に応ずるかのようだった。 
「おい、ええと、お前。なんだアレは」 
訊かれた神父風は、怪異との遭遇に驚き、床にへたりこんで埃まみれになっていた。 
「山本ですよお」 
「は? お前の名前なんか聞いてない」 
浮遊する発光物体は螺旋を描きながら降下し、注意深く観察するジュンにまとわりついた。 
光が頬を掠めると、カビ臭い空気に、甘い花の香りが混じった。 
山本と名乗った神父風の少年は、胸のロザリオを握りしめ、ジュンの問いに答えた。 
「善良な霊魂か、精霊、だと思いますけど」 
燐光は、綿毛のように揺らめきながら、少年達を誘うかのように礼拝堂の奥へと飛んでいった。 
「知らないのか。使えないヤツだな。もう帰っていいぞ」 
ジュンは傲慢に吐き捨て、燐光を追った。よせばいいのに、山本も慌てて続いた。 
「困りますよ。弟さんに何かあったら、俺、桜田さんに何て言えばいいか」 
「うるさい。見ろ」 
燐光は木製の祭壇の前に留まり、その前面に刻まれた文字を自らの輝きで示していた。 

             VOLVES?   NE VOLVES? 

二つの簡潔な疑問文は、木板の上にナイフのようなもので荒く刻みつけられていた。 
それらの周囲だけ埃が拭われており、まだ最近彫られたばかりのようだった。 
「誰かのイタズラじゃ……」 
少年聖職者はありきたりな所感を述べ、年下の少年に睨まれた。 
「早く訳せよ」 
「ええと、あなたは転がすでしょうか、転がさないでしょうか、かな。たぶん」 
「どけ」 
ジュンは乱暴に山本を押しのけ、右の親指を立てた。その上を左手が通ると、 
まるで刃物で裂いたように指紋から血が滴り、そのまま指を二つの疑問文の前者に押し当てた。 
「僕は契約に応じるぞ!」 
「ちょっと、弟さん、何してるんですか!」 
山本が恐怖に引きつった声を上げた。"VOLVES?"の文字列が、ジュンの赤い血に彩られると、 
燐光が勢いよく舞い上がり、山本は腰を抜かして崩れ落ちた。 
「もうやめてくださいよ、帰りましょうよぉ」 
山本の泣き言など、半狂乱にあるジュンの耳には届いていなかった。 
燐光は彼を、堂内右手奥の、鉄格子の扉で仕切られた小部屋に案内した。洗礼室である。 
部屋の中心に据えられた半球形の洗礼盤は、水を湧き出させるままに放置されていて、 
波打つ水面が、燐光の放つラベンダー色の輝きを、小部屋の漆喰全体に乱反射させていた。 
そんな幻想的な光景に目もくれず、ジュンは床に置かれた一つの箱、いや鞄の前に跪いた。 
その革張りの四角い鞄は、幼児がひとり入れるぐらいの大きさで、 
たった今そこに置かれたかのように、塵一つ付着していなかった。 
飾り金具は重厚な真鍮製、特に上面中央に配された薔薇の細工が見事だった。 
ジュンは緩慢な動作で両手で伸ばし、鞄の上蓋を持ち上げた。 
瞬間、濃密な妖しい香気が立ち上った。 
その中に収められていたものは、横たわり眠る少女、いや──。 
「人形、ですか」 
やや距離を置いた場所から、山本が震える声で尋ねた。 
彼が遠目にそう判別できたのは、非日常的な、黒と白の編み上げドレスのためだろう。 
そのベルベットとサテン、腰まで届くプラチナブロンド、鴉色のフェザーストール、 
エナメルのロングブーツ、それら全てが光沢を放ち、アンティークの様式美を引き立てていた。 
「ふん、人形か」 
ジュンは目を閉じた少女人形を抱き上げ、つぶやいた。 
その声色には明らかな失望が混じり、攻撃的な笑みは自嘲的なものに変質していた。 

だが、その人形は身長100センチメートルはあろうかという大作で、保存状態は完璧に見えた。 
「オクに出したら、いくらぐらいになりますかね、それ」 
「呪われるぞ、俗物坊主」 
「やめてくださいよ。ただの人形なんでしょ」 
山本の確認は、ただの願望に過ぎなかった。いつの間にか、ジュンの表情から笑みが消えていた。 
彼の視線は、箱に同梱されていた、羽を広げた蝶のような真鍮の器具を捉えていた。 
「おい、さっきのアレ。転がす、じゃなくて、巻く、じゃなかったのか」 
「え?」 
ジュンは左手で人形を抱いたまま、右手にその小さな器具を取った。 
「ねじ巻きだよ。柱時計のと同じだ。お前、巻いたことないのか」 
問われて、山本が「すみません」と謝ったが、既にジュンの関心は人形に奪われていた。 
左手を返し彼女の背を上向けると、銀色のストレートヘアがさらりと左右に流れ、 
大きく開いたドレスの背中に、純白の柔肌が露わになった。 
フェザーストールに見えていたそれは、人形の背中から生えた一対の翼と判明したが、 
少年が本当に求めていた少女の秘密は、そこからやや下ったところにあった。ねじ穴である。 
右手のねじ巻きを無遠慮に差し込み、ジュンは巻いた。キリ、キリ、と、耳障りな音を立てて。 
山本は、制止することなく、ただ口を半開きにして、その様子を眺めていた。 
 キリ、キリ、キリ、キリ、キリ……。 
金属音、いや、木材とも陶器とも取れない、不可思議なノイズだった。 
  キリ、キリ、キリ、キリ、キリ……。 
ふと、ジュンは手を止めた。人形が彼の左手からわずかに浮き上がっていたからだ。 
   キリ、キリ、キリ、キリ、キリ……。 
緩やかに中空に浮上しながら、脈を打つかのように震える少女人形は、 
かすかに発光を始め、少年達は押し黙って息を飲んだ。 
やがて音と光が消失したとき、そこには赤い瞳を見開いた少女が直立していた。 
「すごいな……」 
一連の不可解な現象に眉一つ動かさなかったジュンですら、このときばかりは感嘆した。 
頭頂の黒薔薇から、冷ややかな童顔、ドレス前面の編み上げを経て、ロングブーツに至る中心線、 
パフスリーブの曲線、両翼からオーバースカートへと繋がる直線が形成する黒色のソールタイア(X字)、 
その上に縫いつけられた白い逆十字──幾何学的に完璧な魔性がそこに存在した。 
「出た……」 
山本があえぎ声を漏らすと、少女人形はくすりと笑い、少年達を値踏みするように見回した。 
「私のネジを巻いたのはだぁれ」 

鈴を鳴らしたような声に、ネジを巻いた少年は正気を取り戻した。 
「僕の名前は桜田ジュン。お前と契約したのはこの僕だ」 
「ふぅん、さえないカンジぃ」 
人形がそう評価を下したのも無理はなかった。裸足にパジャマで、頭に包帯を巻いた眼鏡の少年である。 
「人形がしゃべった……」 
山本が遅れて反応したが、彼の発言は、意志を持つ人形の機嫌を確実に損ねた。 
「当たり前でしょぉ? 私、失礼なお馬鹿さんは大嫌ぁい」 
「俺に話しかけるな! 悪魔と話したら取り憑かれるだろ! 主よ、我深き淵より主に叫び奉れり! 
主よ、我が声を聞き入れたまえ! 願わくは我が願いの声に御耳を傾けたまえぇー!」 
ロザリオを振りかざして喚き始めた小坊主を、少女人形は鼻で笑い飛ばした。 
「ふっ、なにそれ。エクソシストぉ?」 
口に手を当て小馬鹿にする彼女の仕草は、生意気な人間の少女と寸分変わりなかった。 
少女人形は、ふわりと舞い上がると、ガラスのはめ込まれていない高窓に腰掛け、 
澄んだ赤い瞳でジュンを見下ろした。もし月光が差し込んでいれば、さぞ絵になったことだろう。 
「私は水銀燈。最も気高く、最も美しく、そして最もアリスにふさわしい薔薇乙女よ。おばかさぁん」 
「は? 何で僕までバカなんだよ」 
ジュンが問い質すと、水銀燈という人形の口元が、くいっと酷薄そうにつり上がった。 
「あら、怒っちゃやぁよ。だって貴方、まだ水銀燈と契約を結んでないんだもの」 
「なんだって」 
先程、あの刻字に血を捧げたのは、意味のない行為だったのか。それとも、まだ何か儀式が必要なのか。 
ジュンが洗礼盤の上を漂う燐光を睨んでいる間に、祈祷していた山本が後ろから口を挿んだ。 
「じゃあ、今ならまだなかったことに!?」 
水銀燈がぴくりと翼を動かすと、一枚の黒い羽根が飛び出して、小坊主の額にダーツのように突き刺さった。 
悲鳴を上げるおばかさんは放置しておいて、人形はジュンを猫なで声でくすぐった。 
「でもぉ、あらかじめ契約の事を知っていたのは誉めてあげるわぁ」 
「バカだな。悪魔を召喚して使役するなら当然じゃないか」 
ジュンにまで悪魔扱いされて、水銀燈は眉根にしわを寄せた。 
「なによ。私は誇り高きドール水銀燈。卑しい悪魔なんかと一緒にしないでちょうだい」 
「わかったわかった。契約しようとすまいと、僕の要求を聞いてもらうぞ、人形」 
「要求ぅ? 人間。貴方、なにか勘違いしてない?」 
強引に迫る少年を呆れ顔で見下ろしていた少女人形は、しかし、何か思いついたのか、 
一つ悪戯っぽく微笑して彼の無礼を許した。 
「ふ、まあいい余興だわ。願い事を言ってご覧なさい。その代わり、貴方の命を水銀燈にちょうだぁい」 
「ああ。僕を殺せ」 

それが要求だった。簡潔すぎて理解できなかったのか、水銀燈は微笑んだまま反応しなかった。 
「聞こえなかったのか。僕の願いは死だ。お前のお望み通り、魂をくれてやるよ」 
「ちょっと弟さん、何言ってるんですか」 
山本にとっても寝耳に水のようだった。水銀燈は気味悪そうに、ジュンから視線を外した。 
「なにそれ。すっごくつまんない」 
「つまるとかつまらないとかはいいだろ。僕に従えよ」 
「いやぁよ。壊れたいなら、勝手に独りで壊れちゃえば? おいで、メイメイ」 
興ざめしたのか、水銀燈はそのまま窓から這い出し、場を去ろうとした。が、しかし、 
突然、体がさび付いたかのように、彼女の動きはぎこちなくなった。 
「なによ、これ……」 
水銀燈は見えない何かによってじわじわと室内に引き戻され、窓枠を掴んで抵抗するのも虚しく、 
彼女の肢体は空中に固定された。まるで蜘蛛の巣に絡め取られた蝶のように。 
薄紫の燐光は、やはり彼女の使い魔だったのか、囚われの主人の周りをせわしなく飛び回っていた。 
「人形、まだ話は終わってないぞ」 
「あぁらあら、人間のくせにぃ……。こんな真似してただで済むと思ってるのぉ?」 
余裕ぶった笑顔で、生き人形は狼藉者を見下ろした。同時に、ざわっと、彼女の黒い両翼が逆立った。 
「タダ? 出来の悪いヤツだな。僕は一目で分かったぞ、お前が人間の生命力を餌にする類の輩なのは」 
「だからなによ。別に、貴方の力なんか要らないわ。私は糧にする人間は自分で選ぶの」 
冷静に吐き捨てる人形の赤い目は、使い魔の光を反射する、金色の"糸"の存在を捉えていた。 
ジュンの左手から伸びるそれは、洗礼室全体に張り巡らされ、彼女の四肢に絡みついていた。 
窓は"糸"によって塞がれていたが、鉄格子の扉が開いたままの出口は──。 
そのとき、小部屋の入り口あたりまで逃げていた山本が、ジュンに何か抗議を始めた。 
「話が違うじゃないですか! 呪いを解く方法を探してたんでしょ!?」 
「まだいたのか。うるさいヤツだな」 
「メイメイ!」 
ジュンの注意が逸れた一瞬の隙を、水銀燈は見逃さなかった。 
メイメイと呼ばれた燐光は高速で"糸"を断ち切り、拘束されていた主人の解放に成功した。 
両翼を広げた水銀燈は、床すれすれまで急降下し、鞄を拾い上げ、 
少年達に向かって羽根を機関銃のように発射しながら、洗礼室から礼拝堂内へと突っ切った。 
死にたがりの少年が、羽根の攻撃を"糸"で防御していたのは、まったくもって笑止だった。 
「逃げるな!」 
「おバカさぁん!」 
一瞬にして、水銀燈は"糸"の射程外に飛翔した。人形と人間との機動力の差だ。 
しかし、彼女にも一つ誤算があった。第三の人間の存在である。 

朽ち木のようなベンチの並ぶ礼拝堂の闇を切り裂き、白銀の人形は正面玄関のアーチを目指した。 
その下に、いつからいたのだろうか、一人の人間のシルエットがあった。 
「どきなさい!」 
水銀燈は減速することなく、人影に突進した。強引に突破するつもりだったのだろう。 
先行するメイメイの光が、影よりも黒い尼僧衣を照らし出した。 
若い尼僧は、その場を逃げるどころか、空飛ぶ怪異たちに向かって微笑んですらいた。 
「Domine, profer lumen caecis!」 
歌うように高らかに、尼僧は祈りの言葉を発した。その瞬間、飛行する水銀燈の挙動が乱れた。 
手にしていた鞄を落とし、錐もみ状態になって、とうとう木の床に墜落してしまった。 
乾いた騒音と埃を巻き上げながら転がってきた人形を見下ろし、尼僧は歓喜した。 
「最高! 私ったらツイてるわー!」 
何が起きたのか、全く理解できていない様子で、水銀燈は第三の人間を見上げた。 
その鼻先に、尼僧は指を突きつけ、やはり歌うように高らかに宣言した。 
「貴女、悪魔ね。決定!」 
「おい、エクソシスト、そいつは自動人形だぞ!」 
駆け寄るジュンが尼僧に向かって叫んだ。その声のおかげか、我に返った水銀燈は再び翼を立てた。 
だが、尼僧のローファーに頭を踏まれる方が早かった。 
「あぐぅっ!」 
「誰が何て言おうとそう決めたの。貴女は悪魔よ」 
天使のような微笑みで、尼僧は少女人形の頭部を文字通り蹂躙した。 
「おい、水銀燈は僕のモノだ!」 
数メートルの距離まで迫ったジュンが、尼僧に向かってボールを投げるように左手を振るった。 
同時に、尼僧の足が人形を跳ね上げた。真上に舞い上がった小さな体──といっても、 
十数キロはある──は、突然軌道を変えてジュンの方へと飛び、そのまま彼の手中に収まった。 
あの"糸"で水銀燈を絡め取ったのだが、「ちっ」とジュンは舌打ちした。 
人形を奪還"させられた"僅かな間に、玄関の重厚な扉は閉ざされ、尼僧の姿は掻き消えてしまっていた。 
「ダメよ、ジュン君。電車に轢かれた子が、昨日の今日で生き返ったりしちゃ」 
メイメイの灯りだけが頼りの暗い礼拝堂に、どこからともなく尼僧の明るい声が響いた。 
閉ざされた扉は、よく見ると破り取った書物の断片がびっしり貼り付けられていた。どうせ聖書だろう。 
「何だよ。これで僕を閉じこめたつもりか」 
「挑発しないで下さいよ! 柿崎さんもやめてください、ここ病院のチャペルですよ!」 
追いついた山本が、ジュンともう一人の人物を諫めた。柿崎とはあの尼僧のことらしい。 
「放しなさい、人間! 仲間割れ!? 私は関係ない!」 
ジュンの腕の中の水銀燈が暴れ出した。埃まみれの酷い有様だが、壊れてはいないようだ。 

「おまえら、僕に指図するな!」 
感情気味に叫んだジュンだったが、荷物になる水銀燈は解放せざるを得なかった。 
どのみち逃げ場はない。あの柿崎も、そのつもりで一度人形を手放したに違いない。 
  《 Gloria Patri, et Filio, et Spiritui Sancto, 》 
次に聞こえてきたのは賛美歌の独唱だった。結局、ジュンの側から離れない水銀燈が吠えた。 
「くっ、バカにしてぇ!」 
「バカだな。歌で心を操るのがあいつの攻撃だ。人形には効いてないのか?」 
ジュンの言った通り、その異常なまでに澄んだ歌声は、耳を塞ごうがお構いなしに、 
直接頭の中に侵入してくる類の魔力を持っていた。 
  《 sicut erat in principio et nunc et semper et in saecula saeculorum. 》 
「経験者は語るってヤツぅ?」 
「うるさい。こんな歌、不意を突かれなきゃどうってこと……!」 
  《 Amen. 》 
肉と肉とが激しくぶつかる音と共に、不意を突かれたジュンの体が吹き飛んだ。 
たっぷり十メートルは飛ばされて、落下の衝撃で木製のベンチをいくつか破壊した。 
「あ、俺……?」 
山本が、ジュンを蹴り飛ばした右足を上げたまま、呆然と固まっていた。 
水銀燈もまた、この無害そうな少年には油断しきっていた。危険を察知したときには手遅れで、 
高速で背後に回り込んだ山本によって、両腕両翼を羽交い締めに捕らえられてしまった。 
この万力のような締め付け、人間を空き缶のように蹴り上げた脚、どちらも尋常ではなかった。 
「あなたたち悪魔って、ホント単純」 
水銀燈の眼前に、柿崎が出現した。いや、初めからそこにいたのか。 
「自分が操られないことばかり集中してたのかしら。それとも、山田君を忘れてたのかしら。 
あ、山田君はちょっと黙っててね。えーと、水銀燈だったわよね。知ってる? 
私たち人間は普段、神に与えられた潜在能力の三割しか使えないわ。常識よね? 
でも、私の歌はその枷を外し、潜在能力を何倍にも高めることができるの。スゴイでしょ? 
私の歌に抵抗すらできない山田君でも、神に与えられた100パーセントの力を発揮できるのよ」 
長広舌を振るい始めた柿崎に、水銀燈は「貴女、お勉強苦手でしょ」とだけ答えた。 
一瞬だけ、心配そうに浮遊するメイメイに目を向けたが、何も命じなかった。 
柿崎の双眸は、その光を受けずとも、爛々と輝いていた。 
「でもね、私、お料理は得意なの。ねぇ、水銀燈、貴女の手足をねじり切って、 
油で揚げて、子供たちのおやつにしてあげたら、どんな声で泣いてくれるの?」 
「今までいろんな人間がいたけどぉ、こんなイカれた子初めて……」 
今さっき出会った自殺志願者の少年など、この尼僧に比べれば常識人に過ぎなかった。 

「あら、イカれてるのは貴女でしょ。礼拝堂に来る悪魔なんて、私、初めて見たわ。 
感激しちゃった。私のために殺されに来てくれたのよね」 
「バカじゃない」 
このあたりが限界のようだった。柿崎はく軽やかに身を翻して、歌唱を開始した。 
  《 Kyrie eleison, Christe eleison, Kyrie eleison. 》 
「くうぅっ……!」 
  《 Christe audi nos, Christe exaudi nos, 》 
水銀燈の端正な顔が苦痛に歪んだ。 
  《 Pater de coelis Deus, miserere nobis. 》 
山本は無言で、締め付けを強めてくる。いくら歯を食いしばっても、関節はぎしぎしと悲鳴を上げた。 
  《 Fili Redemptor mundi Deus, miserere nobis. 》 
柿崎の猟奇的な宣言の通り、水銀燈の両腕がねじり切られるのは時間の問題だった。 
  《 Spiritus Sancte Deus, miserere nobis. 》 
もし蹴り飛ばされたジュンが、そのまま眠っていればの話である。 
  《 Sancta Trinitas, unus De...EEHHHEEEEUUUUUU! 》 
異音と共に、柿崎の体がぐいっと空中に持ち上がり、白目を剥いて両手で喉をかきむしり始めた。 
途端に脱力した山本が、水銀燈の背中から弾き飛ばされた。 
暗がりの向こう側、散乱したベンチの破片の中から、ジュンが左腕を挙げていた。 
そこから伸びた"糸"は、天井の梁から垂らされ、柿崎の首を絞めていたのだ。 
「次から、自分で首吊れよ。バーカ」 
女の細長い四肢が垂れ、事切れたと思われたとき、尼僧姿は白い煙に変じ、雲散霧消した。いや──。 
  《 Sancta Maria, ora pro nobis. 》 
聖母を称える歌は、未だ礼拝堂内に健在だった。 
何らかの魔術だったのか、絞殺された柿崎は、実体を持つ幻影に過ぎなかったのだ。 
「どっちが悪魔だよ……」 
眼鏡を失ったジュンのぼやきは虚しく、意識を失ったままの山本もまた、立ち上がった。 
神父服の両腕が妙な方向に曲がっているが、気にする者は誰もいなかった。 
  《 Sancta Dei genetrix, sancta Virgo virginum, ora pro nobis. 》 
「礼は言っておくわ」 
ジュンの下へ飛来した水銀燈は、目を合わせようとはしないが、しおらしいことを言った。 
が、そんな雰囲気をこの桜田ジュンが読むはずもなかった。 
「僕と契約しろ。足手まといなんだよ、お前」 
「なによなによ偉そうに! ジャンクになりたがってたくせに!」 
言い合っている間に、傀儡と化した山本が迫ってきていた。 

  《 Mater Christi, mater divinae gratiae, mater purissima, mater castissima, ora pro nobis. 》 
ジュンは、解けかかっていた頭の包帯を、引きちぎって捨てた。彼の頭には傷など無かった。 
「あいつらに痛めつけられても、僕は壊れない。痛い思いをするだけなんだ。痛いのは好きじゃない」 
入院着は肩口から大きく裂けていたが、そこからのぞく肌には、かすり傷一つ残っていなかった。 
「ふぅん。それが、呪い?」 
水銀燈は翼で宙を舞い、ジュンは"糸"を使って天井の梁に上り、山本をやり過ごした。 
「あれ。お前にそんなこと話したか」 
「さぁね。ありふれた話だし。でも、そんな事私には関係ないわぁ」 
山本は猿のような身軽さで数メートルの高さを飛び、梁によじ登ると、正気を保つ二人を追いつめた。 
  《 Mater inviolata, mater intemerata, ora pro nobis. 》 
「ジュンくぅん、左手を出しなさぁい」 
「僕に命令するな」 
などと言いながら、ジュンは水銀燈の顔の前に左の拳を突き出した。 
人形の小さな手が、握りしめられた少年の手を優しくこじ開けた。 
  《 Mater amabilis, mater admirabilis, ora pro nobis. 》 
「もう嫌と言っても手遅れよ。あなたの命、水銀燈にちょうだい」 
どこに隠し持っていたのか、水銀燈は薔薇の意匠の指輪を、ジュンの薬指にはめ込んだ。 
刹那、朽ちかけた礼拝堂に、光が溢れた。 
  《 Mater Creatoris, mater Salvatoris, ora pro nobis. 》 
ジュンに与えた指輪が放つ、熱を感じるほどの閃光を背中に浴び、水銀燈は不敵な笑みを浮かべた。 
「さっきは、よぉくもやってくれたわねぇ」 
突進してくる山本を紙一重で回避し、水銀燈は至近距離で両翼を逆立たせた。 
「おばかさぁぁぁぁん!!」 
無数に撃ち出された黒い羽根は、傀儡の体をその勢いで持ち上げ、吹き飛ばし、 
全身を真っ黒に染め上げ、遙か彼方の床へと墜落させた。 
  《 Virgo prudentissima, virgo veneranda, virgo praedicanda, ora pro nobis. 》 
「熱いぞ、これ……」 
まばゆい輝きを放出しきった後も、ジュンにはめられた指輪はまだ赤熱していた。 
「あははは! 貴方のお友達、ジャンクにしちゃったぁ」 
残酷に哄笑する水銀燈は、乱れた髪や汚れたドレスまで回復させていた。これも契約の力か。 
床に叩き付けられた山本はそのまま動き出す気配はなく、ジュンもまた梁から下りた。 
「弱いくせに、僕に付きまとうからこういう目にあうんだ」 
  《 Virgo potens, virgo clemens, virgo fidelis, ora pro nobis. 》 
「ていうか、あいつ、いつまで歌ってるつもりだよ。これ録音だったりしないよな」 

「隠れてないで出てきなさぁい。この恨み晴らさないではおかないわァ!」 
頭を踏みにじられ弄ばれたことは、気位の高い水銀燈にとって忘れ得ぬ屈辱なのだろう。 
興奮気味の彼女とは対照的に、ジュンは冷め切った目で、取り巻く闇を睥睨していた。 
「外に出るぞ。放火して燻りだしてやる。あいつをやったら、僕も殺せよ」 
「罰当たりねぇ。待ってなさい、私の人工精霊で結界を破ってあげるわぁ」 
聖書のページがびっしり貼り付けられた玄関に向かって、水銀燈がメイメイを飛ばそうとすると、 
それには及ばないとばかりに勝手に扉が開いた。が、それは地獄の釜の蓋だった。 
  《 Speculum justitiae, sedes sapientiae, ora pro nobis 》 
患者、患者、看護師、患者、医師、看護師、患者、医師、警備員、患者、患者、看護師、患者……。 
例外なく、連中の目は腐臭を放っていた。礼拝堂の騒ぎを聞き、様子を見に来たわけではなかろう。 
柿崎の傀儡どもは怪奇映画さながらに、堂内になだれ込んできた。 
最初に危機的状況に晒されたのは、床に落としたままだった水銀燈の鞄だった。 
「私の鞄を拾いなさい、ジュン、今すぐッ!」 
「なんで僕が!?」 
ジュンは文句を垂れながら"糸"を飛ばして、間一髪、それを拾い上げた。 
  《 Causa nostrae laetitiae, ora pro nobis. 》 
水銀燈は長いスカートを翻すと、メイメイを伴って礼拝堂の奥へと飛んだ。 
「逃げるのか?」 
「痛い思いをしたくないんでしょぉ?」 
彼らが向かったのは、あの小さな洗礼室だった。逃げ場と言えば、ガラスのない高窓ぐらいだが。 
  《 Vas spirituale, vas honorabile, vas insigne devotionis, ora pro nobis. 》 
少し目を離した隙に、その窓に有刺鉄線と聖書による封印が施されていた。さすがに仕事が早い。 
ただ、そのことは人形の頭でも予測済みだったようだ。 
「メイメイ、扉を開きなさい!」 
水銀燈が彼女の人工精霊に指し示したのは、部屋の中心に据えられた洗礼盤だった。 
メイメイが溜められた水の中に飛び込むと、円形の水面から白く淡い光があふれ出した。 
「nのフィールドの入り口には不十分だけど、この際仕方ないわ」 
「は? なんだそれ」 
説明している時間はなかった。傀儡たちが古い床を踏みならす音が、すぐそこまで迫っていた。 
  《 Rosa mystica, turris Davidica, ora pro nobis. 》 
「ジュン、私を抱き締めることを許してあげる。放したらジャンクの刑よぉ」 
冗談っぽく言って、水銀燈はジュンの胸の中に収まった。ジュンは洗礼盤を見てうなった。 
「そこに飛びこめって言うんじゃないだろうな」 
彼は水銀燈の意図を察していたが、未知への扉を前に二の足を踏んだ。 
なぜなら、この小さなパートナーは、邂逅した当初、この逃走手段を用いなかったからだ。 

  《 Turris eburnea, domus aurea, foederis arca, janua coeli, stella matutina, ora pro nobis. 》 
"不十分な入り口"には、何らかの危険があるに違いなかった。 
しかし、遂に傀儡たちは洗礼室にまで侵入してきた。こちらは明確な危険である。 
「フクロにされるよりはマシだよな?」 
傀儡たちをが猟犬のように飛びかかってくると、ジュンの体はもはや勝手に動作し、 
人形とその鞄を抱いて、波打つ入り口へとダイブした。 
傀儡たちが洗礼盤に群がり、それを横転させると、真っ暗闇の中にカビ臭い水が零れ広がった。 
既に少年と少女人形の姿は、どこにもなかった。 
同時刻、眼下に礼拝堂を臨む病院の屋上で、柿崎が聖歌の独唱を終えた。 
深夜に歌う彼女を咎めようという者は、結局、最後まで現れなかった。 
黒衣の尼僧は、魔の気配の絶えた礼拝堂をしばらく眺めやってから、暗澹たる夜空に溶け込んでいった。 

山本少年が意識を取り戻したのは、その夜から数日後のことだった。 
やはり、有栖川大学病院の一室である。 
午後の暖かなそよ風に混じって、断続的に、不快な衝撃音が響いていた。 
「おはよう、山田君。起こしちゃったわね。あのチャペルを取り壊す工事が始まったのよ」 
傍らから、山本に話しかける声があった。彼が恐る恐る視線を平行移動させると、 
真っ白い病室内では恐ろしいほど目立つ黒衣の、清楚な笑みがそこにあった。 
彼は覚醒早々、病院内ではた迷惑な悲鳴を上げることになった。 

(続く) 

次回予告: 
「酷いですよ、柿崎さん! 両手複雑骨折で箸も持てないんですよぉ!」 
「何言ってるの、山田君。ただの筋肉痛じゃない。一晩寝れば治るわ。 
それとも、私にごはんを食べさせて欲しい? なんなら料理だってしちゃうわよ?」 
「え、遠慮します……」 
「食べる方はともかく、出す方は大変よね。あ、そうそう、あなたが惰眠をむさぼってる間、 
愛しの桜田さんがシモの世話までしてくれてたのよ?」 
「うそ!?」 
「嘘。でも、夜のお世話をお願いしておいてあげたわ。手が使えないと不便でしょ?」 
「誰か俺を殺してぇー!」 

第2話 楽士 die Spielerin 

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