鏡の世界の森で、憧れの女生徒と二人きり。ファンタジーとロマンスに溢れる境遇というやつだ。 
ところが、山本少年とその女生徒──桜田のりは、囁き合うことも忘れ、ぽかんと口を開けて並び立ち、 
見つめ合うことも忘れ、梢の合間に覗く青空を仰いでいた。実は、彼らが二人きりというのは語弊があった。 
確かに、その場に突っ立っていたのは山本とのりの二人のみだったが、彼らの頭上、数十メートルの高度に、 
第三の人物、柏葉巴が滞空していた。彼女がセーラーカラーの学生服の他に身につけているものといえば、 
左の肩に担いだ三尺七寸、真竹の竹刀のみ。凛々しくも、非現実的な姿だった。 
泣きぼくろが添えられた切れ長の目は、まず青く霞む稜線を四顧し、次に眼下に広がる黒い森を俯瞰した。 
果てしなくはびこる樅の樹海。そのある一点に、彼女の視線が注がれた。太陽に背を向け数百メートル、 
割と近い場所に、草原の孤島が浮かんでいたのだ。そこには人工の建造物すら確認できた。 
その発見の後、彼女は綿のような軽やかさで下降し、さり気なく右手でプリーツを押さえながら着地した。 
「行きましょう。誰かいるかも知れません」 
未だ呆けているのりたちを肩越しに促して、巴は露根の隆起する、道なき道を歩み始めた。 
「あ、待って、巴ちゃん。今、空飛んでた……?」 
のりが率直に尋ねた。彼女は何故か、上は黄色いポロシャツ、下はタータンのミニスカート、 
右手にクロスと呼ばれる網つきの棒という、ラクロスの試合から抜け出してきたような格好をしていた。 
「鏡の世界ですから」 
巴の回答に、「なるほどぅ」と納得したのはのりだけだった。神父が着用する黒いスータン姿の山本は、 
ローマンカラーを巻いた首を捻り、更に質問した。 
「というか、鏡の世界ってのは、どういう意味なんですか? 何で森?」 
「鏡から入ってきたから鏡の世界です。それ以上は知りません」 
桜田家の物置にあった古い姿見から、謎の尼僧、柿崎によってこの異世界に連行された三人の中で、 
唯一巴だけが事態を把握していた。他二名は、そろって、眠そうな顔で腕組みをした。 
「いや、そう言われてもねえ。俺、どうも記憶が曖昧で」 
「私も、お茶を淹れてたところまでは覚えてるんだけど……。あ、柿崎さんって子もいたかしら?」 
のりがその名前を口にすると、山本が根上がりに躓いてよろけた。転倒にまでは至らなかったが、 
体裁を取り繕うように巴に追いすがって、青ざめた顔で訊いた。 
「そういえば、君、鏡の世界に閉じこめられたって言ってたけど、まさかあの人が……?」 
巴は真っ直ぐ前を見たまま、低い声で囁いた。 
「とぼけないでください。貴方たちの目的は分かってます」 
「いや、俺は別にあの人の仲間じゃないから! 主に誓って!」 
山本が大声を出すと、金槌や鋸やらに翼を付けた異形の鳥たちが、木々の合間から飛び出した。 
のりは丸くした目で謎の飛行生物を見送ってから、どんどん先に進んでゆく二人に走り寄った。 
「あ〜ん、内緒話はダメなのよぅ! 私も仲間に入れて〜」 
姦しい三人組が暗い森を抜けると、そこは青い薔薇が咲き誇る、小さな庭園だった。 

第3話 庭師 die Gartnerinnen 

荊の生け垣を飾る青い薔薇の芳香が、それまで漂っていた雨と土の匂いを打ち消した。 
少年少女は、生け垣の棘に苛まれつつ花園に分け入り、その先に赤い煉瓦の家を見付けた。 
「助かった。この様子なら誰かいそうですね」 
山本が美しく整えられたイングリッシュガーデンを見回しながら、ほっと息をついた。 
庭は規模こそ小さいが、泉を小岩で囲った池を中心に、鬼百合、薔薇、菫の花壇が環状に設けられていた。 
日差しを浴びる泉の波紋、露に濡れた花弁と、それに群がるモルフォ蝶、すべてが宝石の輝きを放っていた。 
「素敵ねぇ。おとぎ話の中みたい!」 
のりははしゃいでいたが、巴は庭の半ばでぴたりと歩みを止め、同時に山本の顔から血の気が引いた。 
その閑雅な煉瓦の家屋は、人間が住むにはあまりにも小さすぎるサイズだったからだ。まさに、おとぎ話だ。 
煙突のある屋根の高さも、彫刻されたドアやランプも、元の世界のものの半分ほどの大きさしかなかった。 
「まぁぁ、かわいい! ちっちゃいおうち! ……あれ、二人ともどうしたのぅ?」 
もし、この建造物がただのオブジェでないとしたら、如何なる者がこれを住居としているのだろう。 
のりのように無邪気に喜ばない山本を横目で見て、巴が尋ねた。 
「貴方は知ってるんですね。あの人形たちのこと」 
「そう言う君こそ……って、今、人形たちって言った!? あんなのがまだいるの!?」 
山本がまた大声を発すると、それが勘に障ったのか、巴が疑わしげに眉を顰めた。 
彼女だけではなかった。薔薇の植え込みの向こうから、何者かがひょこりと頭を出して怒鳴り返してきた。 
「うるせーです! 人んちの庭でぎゃあぎゃあ騒ぐなですぅ!」 
それは亜麻色の長い髪に頭巾を被った少女──らしき存在だった。三人は沈黙して、彼女を見下ろした。 
頭巾を被った頭はソフトボールほどの大きさしかなく、明らかに人間のものではない。やはり人形だ。 
少女人形は幾秒か、赤と緑、色彩の異なる左右の瞳で闖入者たちを見回し、俄に金切り声を上げた。 
「ぎゃああああああ人間が出たですうぅ!」 
「うわああああああああああああ!」 
「きゃぁー、かわいいぃ!」 
小心者と脳天気が釣られて叫んだ。逆に、ただ一人、巴は表情を失っていた。 
いや、泥眼の面を思わせる青白い顔は、むしろ形容しがたい狂気と怨念を滲ませていた。 
「貴女、水銀燈という人形のこと知ってる?」 
擦れ声に問われると、人形は「ひっ」と恐怖に引き攣った悲鳴を上げ、腰を抜かした。 
一目で巴の力を見抜いたのか、単に臆病なだけなのか。深緑の全円スカートを広げて踞ったままだった。 
「そんなヤツ知らないですぅ……!」 
頭を抱えてがたがた震え始めた人形に、真竹の竹刀がおもむろに持ち上がった。 
「嘘つき。桜田君を返して」 

巴が薔薇の低木を踏み越えようと、足を上げたその瞬間──。 
「翠星石から離れろ!」 
蒼い疾風が庭園を吹き抜け、巴の後背から襲いかかった。 
咄嗟に振り抜かれた竹刀が、襲撃者の刃と衝突し、甲高い金属音と火花を散らした。 
巨大な金色の鋏を開き、頭上から圧迫する竹刀を受け止めていたのは、青い服の少年人形だった。 
「人形……!」 
そう、人間ではなかった。巴の竹刀に、上から押さえつけられてしまうほど低い背丈。頭にトップハット、 
肩に青いケープを巻き、下はニッカーボッカーズという風変わりな衣装。そして、緑と赤のオッドアイ。 
「人間です! 蒼星石! 人間が出やがったですぅ!」 
這い蹲っていた緑の少女人形が、勢いを取り戻して絶叫した。蒼星石とは少年人形の名前か。 
「早く、逃げるんだ、翠星石!」 
竹刀と大鋏、奇怪な鍔迫り合いのさなか、声を振り絞った蒼星石に、巴の無感情な問いが降りかかった。 
「貴方、今、私の首を狙った?」 
「だったら、どうしたと言うんだい」 
蒼星石は劣勢に陥りながらも、不敵な笑みで虚勢を保っていた。だが、両者の膂力の差は明らかだった。 
巴は無言で力を込め、体を軋ませ踏ん張る人形の木靴を、土の地面にめり込ませた。 
もはや勝負は決したと思われたとき、桜田のりが動いた。 
「やめなさい!」 
その一喝は薔薇の園に響き渡り、遠巻きに様子を窺っていた小心者どもをびくりと震え上がらせた。 
「みんな仲良くしなきゃダメ! ここでケンカしたらお花さんたちが可哀想でしょ!」 
仲裁というより、母親の叱責だった。のりはどうやら、生き人形たちの存在に疑問を抱いていないらしい。 
上気した頬を汗で濡らした不可思議な少年人形は、敵から視線を外し、誰にともなく口を開いた。 
「……そうだね、あのお嬢さんの言うとおりだ。退くよ、レンピカ」 
言うや否や、蒼星石の体がその場から掻き消え、勢い余った竹刀が土を穿った。巴は目を見開いた。 
動きが素早かった? 死角を突かれた? いや、そのような次元の現象ではなかった。 
蒼星石は、既に巴の間合いの外側まで下がって、呼吸を整えていた。瞬間移動したとしか考えられなかった。 
人形の手にあの大きな鋏はなく、代わりに青い燐光が、掌の上で楕円軌道を描いていた。 
おそらく金糸雀のピチカートと同種の存在に違いあるまい。 
「まぁ、ティンカーベル?」 
のりが無警戒に近寄って、妖精のごとく優雅に浮遊する燐光に瞳を輝かせた。 
「あ、危ないですよ、桜田さん」 
山本は、水銀燈のメイメイを「善良な精霊」と見なした過ちを繰り返さなかった。 
ところが、蒼星石は友好的な態度で、「これはレンピカだよ」とのりに燐光を掲げて見せていた。 
正気に戻った巴も、素手の人形を相手に、得物を構え直す真似はしなかった。 

ただし、翠星石と呼ばれた少女人形は違った。彼女は蒼星石の陰に走って、巴を指さし啖呵を切った。 
「まったく、命拾いしたですね。蒼星石が本気だったら、お前なんかとっくに真っ二つですぅ!」 
巴は何も言い返さなかった。もし、蒼星石があの瞬間移動で、巴の背後に回り込んでいたら──。 
いや、そもそも初撃が警告無しの奇襲であったならば、その時点で巴は敗北していた。 
蒼星石は巴の戦慄を見て取り、穏やかに、翠星石を制した。 
「やめなよ、翠星石。きっと、彼女は何か誤解してただけなんだ。人間は僕らの敵じゃない」 
「そうね。貴方は私の敵じゃないわ。貴方には人を殺せない」 
巴が和解の意をやや挑発的な台詞で締めると、蒼星石は「なるほどね」と頷き、脱帽して名乗った。 
「僕は薔薇乙女のドール、蒼星石。彼女は双子の姉妹の翠星石。そして、ここは僕らの別荘の庭だ」 
君たちは不法侵入者だよ、とでも聞こえたのか、のりが慌てて謝罪した。 
「勝手に入ってごめんなさい。私は桜田のりって言いますぅ」 
「桜田さん、悪魔に名前を名乗るなんて以ての外ですよ! 呪われますよ!」 
巴の陰から、腰抜けが人形たちに向かってロザリオを突きだしていた。実に無様だった。 
「山本君。こんな可愛い子たちが悪魔だなんて、どうしてそういうことを言うの」 
「えっ。……そ、そうですよねっ、うわぁ、可愛いお人形さんだなぁ!」 
「ひゃぁ、キモーイ! こっち見んなです!」 
周囲の騒々しい喚き声に、蒼星石はやれやれと肩を竦めて、帽子を被り直した。 
「名乗りたくないなら構わないよ。ただ、お節介で聞くんだけど、君たち、帰り道は知ってるのかい? 
このタルジーの森から歩いて出ようとしても、迷子になるだけだよ」 
タルジーの森という固有名詞よりも、迷子という単語に、巴の眉がぴくりと跳ねた。 
「心の迷子……。タイムリミットがあるって、誰かが言ってた気がするの」 
「うん。ここは夢の世界だからね。長居する場所でも、長居していいって場所でもない。 
だから、この家は別荘なんだ。住むことはおろか、一眠りすることすら許されない」 
夢の世界。理想郷の比喩というよりは、文字通り、通常ならば睡眠中に訪れるべき世界のようだ。 
「あら。ここって、鏡の世界じゃないの?」 
のりの疑問符に、親切にも翠星石が回答を示した。 
「まったく、無知な人間です。鏡なんてただの出入り口に過ぎんのですぅ」 
「僕らがnの……、いや、この世界に住めないのは、滞在しているだけで力を消耗するからなんだ。 
僕たちドールのネジはすぐに切れてしまうし、君たち人間は心の樹を枯らすことになる。 
体が運動を欲するように、夢は心に必要なものだけど、どちらも過ぎれば毒に変わってしまうってことさ」 
「ぐずぐずしてたら、おめーら全員廃人と化すですよ。生ける屍ですぅ」 
迷子という状態を具体的に説明すると、そういうことらしい。山本がぶつぶつと祈祷を始めた。 
「残念ねえ。こんなに綺麗な世界なのに」 
のりだけは名残惜しそうに薔薇の庭園を見回し、ほうっと溜め息をついた。やはり大物である。 

「ごめん、翠星石。来たばかりだけど、今日はもういいかい。庭の手入れはまた明日にしよう」 
蒼星石が振り返って、双子の姉妹に承諾を求めた。翠星石は不安そうに、巴をちらりと見やって囁いた。 
「それは仕方ないですけど……。蒼星石、アイツと関わり合いになるのだけはやめるです。 
あんな恐ろしげな人間、翠星石は未だかつて見たことがないです」 
「そうかな。あの子の目、誰かに救いを求めているようで、放ってはおけないよ。……なんてね。 
本当は僕も、ちょっと力を使いすぎた」 
「ふぁっ、気がつかなくてごめんです! 私のおばか! 姉失格ですぅ!」 
翠星石は自責して、自分の頭をぽこりと叩いた。口は悪いが、根は善良な人形であるらしい。 
のりは微笑み、腰を曲げて人形たちと視線の高さを合わせた。 
「ごめんね、翠星石ちゃん、蒼星石くん。それで、どうやって帰るのかしら」 
「空の上に扉があるですよ。森の動物たちが間違って出て行かないようにしてるです」 
翠星石は何気なく答えたが、この人形たちがヘリやら飛行機やらを所有しているのは想像しがたい。 
「じゃあ、お空を飛べないと帰れないのぅ?」 
「飛び方も知らないですか。まったく、これだから人間は想像力の貧困な生き物なんですぅ」 
「翠星石。意地悪な人形はアリスになれないよ」 
「ちっ、蒼星石がそう言うならしゃーないです。この翠星石にお任せあれですぅ。……スィドリーム」 
翠星石が右腕を伸ばすと、その袖口から、緑色に輝く燐光が飛び出し、さらに何も持っていなかった手に、 
細やかな浮き彫りのある金の如雨露が出現した。のりは拍手したが、手品が始まったわけではない。 
翠星石は目を閉じ、如雨露を両手で掲げて、何やら呪文を唱えた。 
「私の如雨露を満たしておくれ、甘ぁいお水で満たしておくれ」 
その要求に応え、燐光が如雨露を中心に螺旋運動をすると、金属の容器からまばゆい光が溢れ出した。 
別の世界に旅立っていた山本がびくりと反応した。巴ですら無視できないほどの輝きだった。 
「光の水……?」 
「驚くのはこれからですぅ。みんな私に付いてくるです!」 
翠星石は緑のスカートをふわりと広げて身を翻し、人間たちを従え森の中へと駆けていった。 
そして、一本の苗木の前に立ち止まると、それに如雨露の光る水を与えた。 
「健やかにぃ、伸びやかにぃ」 
それは降り注ぐ光の中で垂れた葉を擡げると、めきめきと音を立てて急成長を始めた。 
「ぐんぐんのびて、雲の上までぇ」 
翠星石よりも小さかった苗木は、みるみるうちに人間たちを見下ろす若木となっていた。 
「さあ、みんな。枝に掴まって」 
蒼星石の指示で、のりと巴が成長を続ける木の幹にしがみつき、空にあるという扉を目指した。 
山本は渋ったが、人形たちまでもが枝に乗っかり、ひとりその場に取り残されると、結局ままよと後に続いた。 
若木は童話で知られる豆の木のように、森からその身を突きだし、天高くそびえる巨塔へと変じていった。 

蒼星石がタルジーの森と呼んだ黒い樹海は、上空から見ると、やはり果てというものがなかった。 
迷い込んだ三人は、もし人形たちに出会えなかったら、時間の制限に関係なく迷子になっていただろう。 
元から静かな巴はともかく、のりははしゃぎ疲れたのか、幹に抱きついて遠くの尾根を眺めていた。 
枝に跨った蒼星石もまた、力なく幹にもたれ掛かって、ぼんやり空を見上げていた。 
ただ一体、苗木を巨木に変えるという超常能力を行使した翠星石だけは、無駄に元気だった。 
如雨露を収めた彼女は、枝から枝へ跳んで巴の前に来ると、今度はのりを盾にして指を突き付けた。 
「人間! 蒼星石のネジが切れたらお前のせいですぅ! 蒼星石に謝りやがれですぅ!」 
「私は口先で謝るつもりはないし、感謝するつもりもないわ」 
巴は翠星石の方を見ようともせず、淡々と言い放った。苛立ちを押し殺しているようでもあった。 
やり取りに気づいた蒼星石は、ふわりと浮かび上がると、憤りに燃える翠星石を鎮めに出向いた。 
「落ち着いて、翠星石。僕のことはもういいんだ」 
と、翠星石の肩に手を置いて枝に座らせてから、自身も巴の隣に腰を下ろして、紳士的に尋ねた。 
「余計な詮索かも知れないけど、君はnのフィールドで何かやり残したことでもあるのかい」 
巴は胡散臭そうに少年人形のオッドアイを見返したが、ややあって、最初に翠星石にした質問を繰り返した。 
「貴方、水銀燈という人形のこと知ってる?」 
「水銀燈? もちろん……」 
「あっ、あんなヤツ知らんです! 翠星石の姉妹は蒼星石だけですぅ」 
すかさず翠星石が蒼星石を遮った。しかし、それは却って、この双子と水銀燈との関係を明らかにした。 
巴が「姉妹?」と呟くと、翠星石ははっと口を押さえた。のりが仰け反って、蒼星石を見つめた。 
「蒼星石くんって女の子だったのぅ!?」 
「えっ、僕、薔薇乙女って名乗ったよ。というか、驚くところ違うんじゃないかな?」 
またか、という顔で、蒼星石は溜め息をついた。少年人形ではなく、少年風の少女人形だったのか。 
「別に驚くことじゃないわ。貴女たちが水銀燈の姉妹だということは、何となく分かってたから」 
巴は人形の性別についての関心など、微塵もないようだ。蒼星石の頬に滲む疲労の色が、一段と濃くなった。 
「んー、水銀燈ちゃんって子がいるのね? だめよ翠星石ちゃん。兄弟で仲間はずれは、めっなのよぅ」 
「ほっとけです! そんなの、人間どもが人類皆兄弟とか抜かすのと同じで、よーするに、赤の他人です。 
私が言いたいのは、あんなヤツのことで、おめーらとケンカする理由はねーってことですぅ」 
「まぁ、本当は私たちと仲良くしたかったのね!」 
「なぁっ! 人間風情が増長するなですぅ!」 
すっかり話の腰を折られてしまった蒼星石は、ひとつ咳払いをして、巴の事情を洞察した。 
「そうか、なるほどね。どうして君がそんな険しい目をしてるのか、大体見当が付いたよ。 
君は水銀燈に、大切な人を奪われた。そして、彼女を追って、この世界に迷い込んだ。違うかい?」 
巴は答えず、森の彼方を睥睨して歯を食いしばった。蒼星石は頷き、侮蔑の言葉を吐き捨てた。 
「そう。人間を糧扱いする性癖は治ってなかったんだね。本当にアリスに値しないドールだな、水銀燈は」 

渺茫たる樹海の上に、層積雲の白い綿がいくつもわだかまっていた。地表から遥か1000メートルはあろうか。 
成長、というより膨張を続ける巨木は、ものの1、2分で彼らを空の高みに運び上げていた。 
妙に温かい風が樹上に繁る青葉をなびかせていたが、夢の世界だからといってしまえばそれまでだ。 
「あらまぁ。もう、全然おうちが見えないわねぇ」 
「のりは目が悪すぎですぅ。その眼鏡は飾りですか?」 
常人の胆力なら目も開けていられない状況で、のりは平然と人形と談笑していた。 
そして小心者の山本も、果敢に木の幹をよじ登ってきた。すっかり現実感を欠いているようだ。 
「ねえ、巴ちゃん、って呼んでいいかな。あの人形と、水銀燈と何があったんだ」 
「貴方には関係ありません」 
冷淡極まりない反応だった。巴は、もはや山本に情報源としての価値がないと判断したのだろう。 
「関係あるよ。あの人形に、ジュン君が連れ去られたんだろう? 俺のせいなんだ、いろいろと……」 
「山本君……?」 
ジュンの名前に、のりは笑みを失った。蒼星石は巴と同じく森の彼方を見つめたまま、人間たちに言った。 
「何があったか知らないけど、君たちは、今は元の世界に帰ることだけを考えた方がいい。 
ジュン君って言ったね。よければ、僕が連れ還してあげるよ」 
何とも奇特な申し出が飛び出した。真っ先に反応したのは、翠星石だった。 
「何言ってるですか、蒼星石!? お人好しにも程があるです!」 
「そうよ、蒼星石ちゃん。いきなりこんなこと頼んじゃ、却って申し訳ないわ」 
喜んで感謝すべき人間たちは、ただ困惑の色を見せただけだった。いや、巴など完全に聞き流していた。 
「いや、責任があるのは、むしろ水銀燈の姉妹の僕たちだ。だから、落ち込まないで、山本君」 
蒼星石はどういうつもりか、毅然と言い張った。しかし、そのオッドアイは、山本を見ていなかった。 
「俺は悪魔なんかと馴れ合わないからな」 
山本はぼそぼそと喋り、蒼星石の篤志を頑なに拒んだ。その態度に、気の短い翠星石が黙っていなかった。 
「きーっ! ムカツクぅ! こんなヤツ、枝からおっぽり出しちまえですぅ!」 
けたたましく喚いた直後、轟音と共に突風が襲来し、空気の壁が一同を紙くずのように吹き飛ばした。 
のりだけは幹に抱きつき留まっていたが、数十メートルに渡ってしなる樹上にあって凄絶な悲鳴を上げた。 
穏やかだった大気が前触れなく一変した。灰色の空は慟哭し、眼下の雲塊は散り散りに引きちぎられていた。 
「翠星石のせいじゃないですよ!?」 
当たり前だ。蒼星石は小さな手を伸ばし、四肢を振り回して絶叫する山本の襟首を鷲掴みにした。 
「暴れないで! いくら夢でも……!」 
「何なんだよ、アレ!」 
山本は緑に覆われた大地の、ある一点を指さしていた。彼らからかなり離れた位置にも拘わらず、 
森の木々が至る所で宙に舞い上げられているのが見えた。まるで煮え立つ鍋だった。 
「ヤツですぅ。バンダースナッチが起きたですぅ……」 

不可思議な現象など珍しくないこの世界でも、桁違いに破壊的な力が、樹海をのたうち回っていた。 
「まったく、世話が焼ける小僧です! そこの木刀女も手を貸すです!」 
荒れ狂う嵐の中、空飛ぶ人形たちは協力して山本を牽引し、揺れ動く巨木にしがみつかせた。 
木刀女呼ばわりされた巴は、中空に留まったまま、天変地異の様を睨め付けていた。 
何か呟いていたが、その言葉は暴風にかき消されて、誰の耳にも届かなかった。 
「まずい。このままじゃ、僕らの庭が……。翠星石、この人たちを頼んだよ」 
一方で、蒼星石の声は彼女の双子の姉に伝わっていた。翠星石は妹を怒鳴りつけて制した。 
「庭より自分の心配をするです! マスターなしじゃヤツに勝てっこないです! それにもう時間が……」 
「心配しないで。別に彼と戦おうってわけじゃない。興奮を静めてあげるだけさ」 
その穏やかな言葉に翠星石が落ち着いた隙をついて、蒼星石は逆風の中に飛び出した。 
「蒼星石!」 
姉の悲痛な呼び声を、蒼星石は省みなかった。彼女の飛行速度ならば、目的地は目と鼻の先だった。 
不意に、巴が後を追って現れ、横合いから何かを差し出した。青い絹のリボンを巻いたトップハットだった。 
「落とし物よ」 
蒼星石はびくっと震えて、乱れたショートヘアを手で探った。風で飛ばされたことに気づかなかったようだ。 
人形は帽子をひったくり、間をおいてから、決まりが悪そうに目を合わせず「ありがと」と礼を言った。 
その後も、人間が隣を並行して飛び続けるので、蒼星石は迷惑そうに尋ねた。 
「どうして付いてくるんだい。扉はすぐ近くだったのに」 
「貴女には二つ、いえ、三つも借りがあるんだもの」 
巴の物言いに、蒼星石はまず呆気にとられ、一瞬だけ苦笑し、しかつめ顔で前方に向き直った。 
「じゃあ、お礼は言わないよ。でも、覚えておいて。いくら君が強くても、力じゃあの魔物に敵わない。 
あいつを止めるのは、時を止めるのと同じぐらい難しいんだ」 
「貴女、時間を止められるの?」 
「まさか。それにしても、こんな暴れ方は今までなかった。僕も初めて見るよ」 
蒼星石は能力を韜晦し、話を変えた。巴は追求せず、自らの推量を打ち明けた。 
「たぶん、その魔物とやらと、誰かが戦ってるわ。この風、知ってる気配がするの」 
「なるほどね。君らと同じ、招かれざる客というわけだ」 
蒼星石が皮肉っぽく笑った。それがこの人形の本心なのだろうか。もっとも、巴は意に介さなかった。 
「貴女の体、あとどれくらい持ちそう?」 
「5分、いや、10分は戦える」 
「ネジが切れるって言ってたよね。どうして巻かないの?」 
「ネジ巻きは持ち歩かない主義なんだ。意外とおしゃべりだね、君」 
蒼星石はやんわりと、それ以上の質疑を拒絶した。巴は何か言いかけたが、いきなり蒼星石から飛び退いた。 
へし折られた大木が暴風に乗って吹っ飛んできたからだ。既に彼女らは、狂える魔物の庭に立ち入っていた。 

直上から見下ろす森は、巨大な爪で幾度も引っ掻いたように、方々で線状の傷が重なり合っていた。 
「間違いない。あいつだ」 
蒼星石がそれを見付けた。樹木を飛沫のごとく弾き飛ばしながら、魔物らしき何かが一直線に接近していた。 
次の瞬間、強烈な衝撃波が二人を襲った。身構える余裕はおろか、悲鳴を上げる間すらなかった。 
ただそれは刹那の出来事で、彼女らが大したダメージもなく体勢を整えると、もう魔物は遠ざかっていた。 
「見えたかい?」 
蒼星石の問いに巴は答えなかった。森は真っ直ぐに割れ、巨大な四足獣が横切った痕跡だけが残っていた。 
遅れて、魔物のやってきた方向から、木やら土砂やらを渾然と孕んだ暴風が、轟音と共に迫ってきた。 
それは明らかに魔物を後背から追っており、魔物以外の何者かが発生させたものに違いなかった。 
「思い出した。この音は……」 
巴が呟いた。風音に混じる、蚊の羽音に似たその旋律は、魔物を目で追っていた蒼星石の耳にも届いた。 
「バイオリン? いや、まさか……」 
巴は着地し、暴風を真正面から見据えて、左肩に竹刀を担いだ。右手は人差し指と中指を立て、印を組んだ。 
「北斗神君来滅悪人、斬截冤家某甲頭、送上天門、急急如太上老君魁剛律令」 
暴風から逃げもせず、訳の分からない呪文を唱え始めた巴に気づいて、蒼星石が青ざめた。 
「何やってるんだ! 危ない!」 
嵐がまさに小柄なセーラー服を飲み込まんとしたとき、彼女の竹刀が裂帛と共に迸った。 
真っ二つだった。巴に斬られた暴風は勢力を失い、巻き上げられていた木々が、次々と森の跡に降り注いだ。 
土煙の中から再浮上した巴は、遠くで破壊の直線を描く魔物に睨みを利かせ、呆れる蒼星石に提案した。 
「先に、寝た子を起こした人たちを取り押さえた方がいいと思うの。魔物も、そこを狙ってやってくるはずよ」 
「君の推理通りだといいね」 
蒼星石に、あの異常に素早い魔物と鬼ごっこをする気力は残っていないようだった。 
魔物が造った道をたどって飛ぶと、その輩はすぐに見つかった。爆心地のように荒涼とした森の跡に、 
黒衣の尼僧と、弦楽器を持った黄色い人形がいたのだ。巴が興奮気味に怒鳴った。 
「貴女たち……!」 
柿崎と金糸雀の主従も、巴たちと同じく、水銀燈の世界から追い出され、この森に飛ばされてきたらしい。 
金糸雀が、飛来した巴と翠星石を見上げ、交互に弓で指して叫んだ。 
「嘘! 迷子になったんじゃなかったかしら! 蒼星石まで!? どうなってるのかしら!」 
蒼星石が「知り合いかい?」と巴に尋ねると、「全然」という返答があった。 
「ほら、金糸雀。よそ見しないの。そろそろ悪魔が戻ってくる頃よ」 
倒木に腰掛けた尼僧が、気だるそうに金糸雀を叱った。楽士人形はバイオリンを構えつつ、愚痴った。 
「ちょっとは手伝ってくれてもいいんじゃないかしら!」 
「私ね、無駄なことはしたくないのよ。音より速く走る悪魔相手になんて、とても歌う気がしないの。 
そういうワケだから、がんばってね」 

魔物が何度もこの場所を通過したのだろう。周囲に無事な立木は一本たりとも残っていなかった。 
「無伴奏バイオリンのためのソナタ、ハ長調」 
金糸雀が魔曲を奏でると、取り巻く空気が目に見えて圧縮を始めた。この演奏が嵐を起こしていたのだ。 
蒼星石は険悪な顔で金糸雀に近寄り、弓を鷲掴みにして強引に演奏を止めさせた。 
「何をするのかしら! だいたい、久しぶりに会った姉妹に挨拶もなしでって、聞いてるのかしらー!?」 
蒼星石は金糸雀のさえずりを黙殺して、巴に要求した。 
「巴。ほんの一瞬でいい。君は時を止められるかい?」 
山本が一度だけその名を呼んだのを、蒼星石は覚えていた。巴は大地に降り立ち、竹刀を担いで構えた。 
出し抜けに、激しい衝撃波が大気を打ち据えた。魔物だ──と認識できた時には、またしてもそこに姿はなく、 
木々を蹴散らして離れていく何かが彼方に見えただけだった。本当に音よりも速いのかも知れなかった。 
巴は最初の位置から数十メートルほど後退し、赤熱した竹刀を正眼に構えていた。 
ローファーが地面に二本の轍を刻み、魔物に力負けして引きずられたことを示していた。 
「てんでお話にならないかしら」 
「また、ちょっと見晴らしがよくなったわね」 
魔物の体当たりから逃げた連中が好き勝手に言っていたが、巴は相手にせず咒言を唱えた。 
「天殺黄黄、地殺正方、千鬼万神、誰復敢蔵、飛歩一及、百鬼滅亡、急急如律令」 
次に深呼吸し、竹刀を逆手に持つと、勢いよく足元に突き立てた。霹靂のごとき響きと共に大地が鳴動した。 
「ひぃ! 地震かしらぁ!」 
森が削がれて剥き出しになった荒れ野を、縦横無尽に亀裂が走り、表土が振動によって砂と化した。 
巴の攻撃はここからだった。竹刀を構え直し、ある方向に狙いを定め、そして──。 
足音よりも速く駆けてくる魔物の巨体を、彼女は三度目にして捕らえた。 
液状化した地面によって加速力を失った魔物は、慣性で巴の前に飛び出し、嵐すら断つ剣と正面衝突した。 
時は止まった。首の長い、斑模様の猛獣が、鋭い牙で竹刀に齧り付いている姿を露わにした。 
「チェックメイトだ!」 
蒼星石は叫ぶと同時に魔物の背の上に瞬間移動し、あの大鋏で鬣のあたりをざっくり切った。 
魔物は脱力し、そのまま地に崩れ落ちた。息絶えたかと思いきや、寝息で穏やかに腹を上下させ始めた。 
鋏で切られたはずの首筋には何故か外傷がなく、また不可思議な能力が使われたに違いなかった。 
「まったく、あんな滅茶苦茶な止め方して。金糸雀と同じじゃないか。……だけど、もういい。帰るよ」 
蒼星石は今の攻撃でほとんど力を使い果たしたらしく、投げ遣りなことを言ってよろよろ飛び立った。 
「あ、待って、巴ちゃん。それと、蒼星石? ダメよ、悪魔はきっちり殺さなくちゃ」 
まだ厄介な人物がいた。この状況を待っていたとばかりに、柿崎が両手を広げ、高らかに歌い始めた。 
すると、眠ったばかりの魔物が長い首を擡げ、前足を起こし、至近距離から巴に向かって突進した。 
魔物の動きは先程に比べて鈍く、間一髪、蒼星石が巴ごと瞬間移動して直撃を免れたのだが──。 
この危険な状況に、そうとは知らず飛び込んでくる者があった。 

「なにやってるですか、蒼星石ぃ!」 
飛来した翠星石は、巴に抱かれてぐったりしている蒼星石を目の当たりにして、悲鳴に近い声を上げた。 
それから、砂地に半分埋もれて、こそこそ逃げようとしている黄色い人形を発見し、怒声を浴びせた。 
「金糸雀!? さてはこの騒ぎの元凶はお前だったですか!?」 
正解である。金糸雀は震え上がって「誤解かしらー」などと鳴いたが、翠星石は聞いていなかった。 
「遅いと思って様子を見に来てみれば……。蒼星石の無鉄砲!」 
周りも見ずに姉妹との会話を始めた翠星石を、巴は有無を言わさず左腕で抱きかかえて飛翔した。 
直後、彼女らがいた空間を、勢いよく魔物の牙が抉った。投げ出した竹刀は、遠くに弾き飛ばされてしまった。 
「なんなんです、あの歌ってる人間は? 金糸雀のマスターですか?」 
「気にしなくていいわ。頭がおかしいのよ」 
「お前には聞いちゃいねーです! ……蒼星石? 蒼星石!?」 
蒼星石の体からギチギチと異音が鳴っていた。緑と赤のオッドアイが、あらぬ方向に向いていた。 
「こうしちゃおれんです! とっととnのフィールドから……後ろです!」 
跳躍し飛びかかってきた魔物を、巴は急降下して回避した。翠星石にも見える程度の緩い速度だったが、 
その分小回りが利くようになり、しかも執拗に巴を狙うようになってきた。 
巴に大人しく抱えられていた翠星石が、蒼星石のケープの下に手を伸ばし、何かを取り出した。 
「人間、この指輪を嵌めるです。蒼星石はこれを通じて、お前の力を受け取れるです」 
それは薔薇の彫金の入った指輪だった。意識が戻った蒼星石が目を見開いて、弱々しく身をよじった。 
「やめて翠星石……! 僕は気高く咲き誇る薔薇乙女、人間の施しは受けない……!」 
「蒼星石の意地っ張り! なら、これでどうですか!」 
と、翠星石は袖口からもう一つ薔薇の指輪を取り出し、巴の左手薬指に嵌めた。 
巴が何も言わずに受け入れると、指輪は目も眩むばかりの光を放った。 
「それは翠星石の……? 何てことを……」 
「翠星石は、蒼星石のためなら、何だってするです。何だってできるです」 
翠星石は微笑みすら浮かべていた。蒼星石は強く頷き、巴の左薬指に第二の輝きが宿ることとなった。 
双子の人形の新たな主は、敵に背を見せることを止め、詠唱する柿崎と対峙した。 
蒼星石の手には大鋏、翠星石の手には如雨露。向かい合う魔物は牙を剥きだし、頭を低くして構えた。 
「両者、そこまで」 
卒然として、場の中心に、タキシードの怪人が出現した。その頭部は、どう見てもウサギそのものだった。 
「未熟な実をもいでも、上等なデザートにはなりえません。実にトリビァル!」 
ウサギ頭の怪人が意味不明の言葉を告げると、液状化で脆くなった地面が蟻地獄の巣のように陥没した。 
その場の全員は、怪人の唐突すぎる登場に驚く間もなく、底知れぬ暗黒の淵に吸い込まれていった。 
闇の上の怪人は、彼らを見送って、誰にともなく囁いた。 
「お楽しみは、来るべきアリスゲームにて」 

光のない穴をしばらく自由落下した後、巴はふかふかの赤い絨毯の上に尻餅を付いた。 
見上げると、安楽椅子に、カーディガンを膝に掛けて異国の少女が眠っていた。 
彼女について印象的なのは、薔薇十字とペリカンらしき鳥を赤い糸で刺繍した黒いネクタイ、 
そして何より、赤々と燃える暖炉の明かりで輝く、透明に近い金色の髪だった。しかし、何者なのか。 
マントルピースの上に掛かった大きな鏡が青白く発光し、そこから蒼星石、翠星石が飛び出してきた。 
巴自身も、その鏡からこの薄暗い部屋に抜けてきたようだ。 
「あいつらは……!?」 
未だ臨戦態勢の蒼星石が鋏を構えて周囲を見回した。だが、その鏡を抜けたのは巴と双子だけで、 
彼らに続いて何かが出てくる気配はなく、鏡の発光は収まった。 
「良かった。無事に、帰って来れたみたいだね」 
安全を確認して、蒼星石がほっと一息ついた。巴は再び室内を見渡してから、小声で同意した。 
「そうね。夢の世界と違って、すごく頭がスッキリしてるもの。ここは知らない場所だけど」 
「そこでうたた寝こいてる、オディールの家ですよ」 
巴はオディールと呼ばれた少女よりも、当然のように日本語を話している西洋人形たちをまじまじと見比べた。 
オーガンジーのリボンつき頭巾とシルクのリボンを巻いた紳士帽、ロングヘアとショートヘア、 
そしてスカートとズボンという対照的な部分もあれば、ケープカラーのブラウスと、その上の黒いウェスキット、 
履き物のサボなどは共通の衣装である。二体とも両眼の瞳の色が異なる、いわゆるオッドアイだが、 
翠星石は左目が赤で右目が緑、蒼星石は左目が緑で右目が赤と、これも共通していながら対照形だ。 
「ぼんやりしてて分からなかったけど、貴女たち、本当に双子なんだね。同じ顔をしてるわ」 
「私もお前のこと、瞬き一つしない冷血爬虫類女だと思ってたですけど、こうやって見ると割と普通の子供です」 
何やら酷い言い様だったが、翠星石は巴と最悪な出会い方をした割に、もう心を開いたようだ。 
「ねえ。もしも、夢の中で死んでたら、どうなってたの」 
膝を抱えて座り込んだ巴が、藪から棒にそんな質問をした。蒼星石が薪の爆ぜる音でうとうとしているので、 
翠星石は面倒くさそうに教えてやった。 
「nのフィールドのことを言ってるなら、あそことこの世界とは表裏一体です。言わずもがなですぅ」 
「そう、死んじゃったんだ」 
「まったく、おかしなことを言うヤツです。ふぁあ……、限界です。私ももう寝るですぅ」 
翠星石はひとつ欠伸をして、温かいの絨毯の上で俯せに寝転がった。蒼星石がその背中を揺すった。 
「もう、翠星石。こんなところで、お行儀が悪いよ」 
「蒼星石も半分寝てたくせに。巴、翠星石たちを鞄まで運んでおくです。場所はオディールが知ってるですぅ」 
翠星石は一方的に喋って、寝息を立て始めた。巴が「鞄?」と聞き直しても返事がなかった。 
「ごめん、巴。やっぱり僕もお願い。起きたら、庭の様子を見に行かなきゃ……。のりたちも……」 
連鎖的に、蒼星石まで大の字になってしまった。巴は立ち上がって、また部屋の観察を始めた。 
ふと安楽椅子に目を向けると、金髪の少女が薄目を開けて巴を見ていた。 

「He...」 
オディールは巴を見付けて、眉を顰めた。目覚めたら部屋に見知らぬ人物がいたのだ。当然である。 
しかしその緑の瞳は、巴よりも、むしろ彼女の指先に向けられていた。そこにはあの契約の指輪があった。 
「C'est ca l'anneau de Corinne... Eh ben... Pourquoi vous prenez le sien?」 
「この指輪、あなたのなの? それより、この子たちの鞄……」 
巴が床に転がった人形を指して言い終える前に、オディールは飛び起きて、部屋のドアへと走った。 
そのまま逃げていくかと思いきや、後ろ手で鍵を閉め、巴に向かって何事か叫んだ。 
「Pousse! Petites lianes!」 
すると、どこからともなく発生した野いちごの蔦が、巴の全身に絡みつき彼女の所作を封じた。魔術か。 
「なぜアナタなの。日本人だから?」 
その流暢な日本語を発したのは、何とオディールだった。年の頃は、巴と変わらないように見えた。 

山本少年が意識を取り戻したのは、薬品臭の漂う病院の待合室だった。 
備えつけのテレビはワイドショーを流していた。午前8時45分。朝から割と混み合っていた。 
ブレザー姿の山本の両手は、依然、ギプスと包帯の内側だった。彼は寝ぼけ眼で呟いた。 
「あれ。ひょっとして、夢……?」 
向かいで松葉杖を抱えた坊主頭の子供が、にやりと笑った。赤面した山本に、背後から誰かが声を掛けた。 
「ひょっとして、山本君じゃありませんか」 
振り返ると、黒いスーツの青年が微笑していた。山本は「はあ」と生返事して、相手をよく観察した。 
カニ目の眼鏡、黒い長髪に白皙の優男だが、ネクタイまで黒いせいか、不吉な印象を醸していた。 
「義父のお知り合いの方ですか」 
「いやあ、これは失礼。お話しするのはこれが初めてでしたか。ええ、神父様には毎度お世話になってます。 
私、白崎セレモニーガーデンの白崎と申します。今後ともご贔屓に」 
と、やたらにこやかに名刺を差し出してきた。やはり葬儀屋だった。 
「突然ですが山本君。君は、ローゼンメイデンというものをご存じですか?」 

(続く) 

次回予告: 
「酷いですよ白崎さん、夢オチなんて!」 
「いやいや、山本君。今時、夢オチはないでしょう。というか、僕に言われても困っちゃうな」 
「じゃあ、桜田さんは一体どこに!? 桜田さーん!」 
「まあ、落ち着いてください。おや、ひょっとしてその方に急用ですか。 
両手が使えないと、身の回りのお世話が必要ですからね。生理現象とか」 
「そのネタ毎回言われてるんで、もう勘弁してください」 
「うーん、仕方ありませんね。じゃ、僕がお世話をして差し上げましょう」 
「やめっ、そういうことじゃなくって! アッー!」 

第4話 茶家 die Teekennerin 

いつも次回予告超テキトーなんで、代わりに。 

第1話 案内人 die Empfangsdame 
 水銀燈(Mercury Lampe) 黒い翼を持つ薔薇乙女。人工精霊メイメイはプラズマ状物質を操る。 
 山本 神父を目指す高校生。病院で奉仕活動中に桜田姉弟と出会い、アリスゲームに巻き込まれてゆく。 
 桜田ジュン 金の糸を操る異能者。永遠の孤独の夢に囚われ、死を願う少年。水銀燈と契約。 
 柿崎 (自称)十字軍聖歌隊長。全ての悪魔・魔術師を滅ぼさんとしている。金糸雀と契約。 
第2話 楽士 die Spielerin 
 金糸雀(Kanarienvogel) バイオリンで魔曲を奏でる薔薇乙女。ピチカートは気体状の物質を操る。 
 桜田のり ジュンの姉。一見普通の少女だが、記憶の一部が魔術で封印されている。 
 柏葉巴 神仙術を使う少女。ジュンの秘密を知っている。翠星石・蒼星石と契約する。 
第3話 庭師 die Gartnerinnen 
 翠星石(Jade Stern) 双子の薔薇乙女。スィドリームは液体を操り、庭師の如雨露は植物の生育を操る。 
 蒼星石(Lapislazuli Stern) 双子の薔薇乙女。レンピカは空間を操り、庭師の鋏はアストラル体を切断する。 
 バンダースナッチ(Bandersnatch) タルジーの森に棲息する、凶暴な魔物。 
 ラプラスの魔(le Demon de Laplace) 謎のウサギ男。薔薇乙女同士の私闘を禁ずる。 
 オディール(Odile Fossey) 薔薇十字団団員。ローゼンの生まれ変わりを探している。後に■■■■と契約。 
 白崎 葬儀屋。9秒間の予知能力を持つ男。なぜか薔薇乙女に詳しい。 
第4話 茶家 die Teekennerin 
 真紅(Reiner Rubin) お茶と錬金術に詳しい薔薇乙女。ホーリエは時間を操る。 
 梅岡 外科医。ジュンの担当医だった。本名は■■■■。 
 佐原 内科に勤務する看護師。白崎に遺体を流し、金を受け取っている。 
 草笛みつ ニート。働いたら負けだと思っている。真紅と契約するが、逆に僕にされる。 
 槐 神父。山本の養父。薔薇十字団らにより、ローゼンの転生者と目される。柿崎に金糸雀を渡した。 
第5話 語り部 die Erzahlerin 
 雛苺(Kleine Beere) 子供らしい無邪気さと残酷さを持つ薔薇乙女。ベリーベルは重力を操る。 
 道化師の人形 薔薇屋敷に潜む人形。トランプを使って侵入者に攻撃する。金の糸で操られている。 
 桑田由奈 巴のクラスメート。ジュンと交際しているという噂のために、各方面から狙われる。 
 結菱一葉 魔術師。雛苺のマスター。旧華族で結菱グループ創業者の子孫。生き別れた孫娘を捜している。 
 柴崎元治 結菱家執事。薔薇屋敷を管理する。ジュンが幼い頃から親しくしていたらしい人物。 
 コリンヌ(Corinne Fossey) 故人。オディールの祖母。双子の人形の元マスター。薔薇屋敷に肖像がある。 
第6話 家庭教師 die Gouvernante 
 薔薇水晶(Rosenkristall) 伯爵によって作られた人形。光を操り、薔薇乙女たちを凌駕する力を持つ。 
 雪華綺晶(Schneekristall) 最後の薔薇乙女。あらゆるものを奪う能力を持ち、特に熱量を奪うことに長ける。 
 ジャバウォック(jabberwock) ポールが使役する竜のような魔物。愛称はジョナサン。 
 伯爵 薔薇十字団団長にして人形師。サンジェルマン伯爵と噂される。本名は■■■■。 
 サラ(Sarah) 薔薇十字団団員。薔薇水晶のマスターに選ばれる。オディールをライバル視するロンドン娘。 
 ポール(Paul) 薔薇十字団団員。サラの付き人。ジャバウォックを召喚する。 

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