山本少年が病院を出ると、澄み渡った秋晴れの空と、不吉な黒尽くめの青年が待っていた。白崎である。 路肩に停めた白いワンボックスにもたれ掛かっていた葬儀屋は、あの人なつっこい笑顔で片手を上げた。 「今から学校ですか」 「え、あ、いや、今日は……」 「では、良ければ、お茶でもご一緒しませんか」 白崎は、曖昧な態度を取る山本を半ば強引に助手席に乗せて、昼前の疎らな国道を走り出した。 「いやあ、先程は申し訳ありません。驚かせちゃいましたか」 あはは、と軽い笑い声を上げる葬儀屋に、両手をギプスで固めた不幸な学生はささやかな反撃を試みた。 「いえ。でも、いいんですか、待合室なんかに出入りして。失礼ですが、俺、白崎さんのこと、 少なくとも病院ではお見かけした記憶がないんですけど、もしかして……」 途中で窄まってしまったが、言わんとしていることは伝わった。若い葬儀屋は、ニッと白い歯を見せて笑った。 「正解。実は僕、もぐりなんです。君は、あの病院でボランティアをされて長いそうですね。感心感心」 葬儀業自体には監督官庁が存在せず、運送業務や割賦販売などを除き役所の許認可を必要としないが、 病院の敷地内で営業を行えるのは、当然、病院の信用を得た指定業者のみである。笑い事ではなかった。 「下手したら不法侵入じゃないですか」 「いやあ、自慢しちゃいますと、僕って危機回避力だけはあるんですよ。もうすぐ免許の更新なんですけど、 このままゴールド頂けそうな勢いで……って、ああ、車の免許証の話ですけどね」 市バスの後ろをゆるゆると付けながら、へらへらと嘯いていた。神に仕える少年は、それ以上追求しなかった。 「はあ。でしたら、また、どうしてあちらに」 「ええ、整形の梅岡先生に、先日運び込まれたマグロ、ではなくて、救急外来の方のことを覗おうと思いまして。 踏切事故だったとは存じ上げているのですが」 「それはお気の毒に。で、白崎さんが、その方のご葬儀を引き受けられようと?」 山本が仰々しく包帯巻きの右手で十字を切ったが、白崎の答えは意外なものだった。 「いえ、残念ながら、と言っては不謹慎ですけど、その患者さん、亡くなっておられないんですよ。 それどころか、病棟から抜け出してしまうほどお元気だそうで」 「え?」 「まあ、それはともかく、先程のお話の続きをよろしいですか。ローゼンメイデンのことです。 ご存じない方にこのお話をすると、僕、頭がおかしい人だと思われちゃいますから、一応お尋ねします。 山本君は、その患者さんとご一緒に礼拝堂に忍び込んで、ちょっと不思議な人形をご覧になりましたね」 白崎はハンドルを握ったまま、あの夜の出来事を見ていたかのように言った。山本は顔面蒼白だった。 「そこまで知ってて、なんでわざわざ……」 「いえね、そのお話に出てくるボランティアの方を、山田君というお名前で覗ってたもので。 僕なりに考えたところ、それ山本君の事ではないかなと思ったんですが、あ、やっぱり正解でした?」 あはは、と軽い笑い声を上げる謎の青年につられて、山本もまた、ぎこちなく笑った。 第4話 茶家 die Teekennerin 褐葉したマロニエのあるカフェテラスは、平日なのにサラリーマンの姿がなく、ほぼ女性客に占められていた。 男二人連れは苦笑いしつつ丸テーブルの席に着き、おもむろに会話を始めた。 「ローゼンメイデン、でしたっけ。何だか、ヘビメタバンドみたいな名前ですね」 「ですね。でも、このスカンジナビアのアンティークはもっと古いものです。その存在が世に知られたのは、 ヨーロッパでビスクドールが流行した19世紀以前。一説には、あのナポレオンに献上された品だとか」 「え。というと、日本で作られたものじゃないんですか?」 「その可能性もありますよ。作者の人形師ローゼンは、生没年、人種、経歴の一切が謎ですからね。 ローゼンは、無名工房の職人たちが用いた共同名とも、彼の存在自体が後世の創作とも言われています。 確かなのは、彼の一般作品が真作偽作を問わず、概ね北欧で発見されているということです」 白崎の滑舌の良さに、山本は途惑いを隠さなかった。なぜ葬儀屋がそんな話をするのか。 「何というか、お詳しいですね」 「いやあ、全部ネットで仕入れた情報です。山本君も、お怪我が良くなったらぜひご覧になってみてください」 会話が一段落付いたのを見計らったように、ギャルソンが「Bonjour. いらっしゃいませ」と注文を伺いに来た。 白崎はエスプレッソを、手の使えない山本はやや迷ってアイスティーを注文した。 「Tres bien, merci. ごゆっくり、どうぞ」 どうやら、青い目の彼はフランス人らしい。女性客が集まるわけである。 山本はそのギャルソンが離れるのを待ってから、再び口を開いた。 「あっ、どうしてアレが国産かと思ったかというと、日本語だったんです。その、つまり……」 「人形が、日本語を話していたと」 白崎は事も無げに、非現実的なことを言った。「驚かないんですか」と尋ねた山本の方が余程驚いていた。 「だって、いまの店員さんも、それに君の所の神父様も、日本語がお上手ではありませんか」 「そうじゃなくて、喋る事自体にですよ。大きな声じゃ言えませんけど、絶対悪魔か何かが憑いてますよ」 「では、日本人の霊かも知れませんねぇ。良ければ、どんなお話をされたのか、教えていただけませんか」 「はあ。ええと、何というか、おバカさん、って言われました」 山本が告白すると、白崎は手で口を覆って失笑した。ひとしきり笑って、カニ目の眼鏡を押し上げた。 「……いやあ、ごめんごめん。ありがとうございました」 「どうも。というか、外国で普通に出回ってるローゼンメイデンは、当然喋ったりしないんですよね」 「もちろん、世に知られるローゼン作品は、どんなに精巧な自動人形といえども、口を聞いたりしません。 中には内部にふいごが組み込まれていて、パパやらママやら、簡単な音声を発するものもありますが……、 伝説のローゼンメイデンシリーズは、それらとは別格のものです」 山本は、ギプスで固めた両腕を組もうとする動作をして、結局、諦めた。 「シリーズ、ですか」 山本が俯き加減に考え込んでいると、「お待たせ」と若くない女が近づいてきた。白崎がさっと立ち上がった。 「いやあ、佐原さん、せっかくのお休みのところ、まことに申し訳ございません。さ、ささ、どうぞこちらへ」 と、ぺこぺこ頭を下げて、女のために白木の椅子を引いた。このカフェは待ち合わせ場所だったようだ。 女は四十がらみのしっかりとした容貌と体型に、よそ行きっぽいメイクとベージュのスーツを纏っていた。 「いいのよ、白崎君の為だもの。あら、この子が山田君? まあまあ、大丈夫? 痛くなあい?」 山本はすっかり面食らった様子で、「はあ」やら「どうも」としか返さなかった。 「やっぱりお二人とも、ご面識がおありでないのかな。えー、山本君、こちらは佐原さんと仰いまして、 有栖川の循内の師長であられる、僕の白衣の天使様です」 「もう、やあねえ、白崎君ったら」 とにかく、佐原の職業は看護師とのことだった。葬儀屋と看護師との関係と言えば、相場は決まっていた。 腰を落ち着けた佐原は「Bonjour, monsieur!」などと、常連っぽくギャルソンを呼んでコーヒーを注文した。 その後は飲み物を楽しみながら、専ら佐原が、スペイン語教室に通い始めたが時間がないだの、 海外旅行をしたいがやはり時間がないだのと愚痴を溢し、白崎が相づちを打つばかりだった。 ビジネスの話に入ったのは、カフェを後にして、堂々と路駐してあった白崎の車に収まってからだった。 山本は助手席を遠慮して、ストレッチャーや仏式の小さな祭壇などと一緒に後部座席に埋もれた。 「柴崎のおばあちゃん、そろそろよ」 「ああ、でも、あの方、お子様がいらっしゃらないのではありませんか」 「最新情報があるのよ。これ口止めされてるんだけど、あのご主人、薔薇屋敷の執事をなさってるとか」 「ほう、薔薇屋敷とは、あの結菱の薔薇屋敷でございますか」 「そうなのよー。ひょっとしたら、大物が釣れるかも知れないわよ?」 なるほど、他愛ないオカルト話と違って、とても人前でできる相談ではなかった。しかし、山本は黙っていた。 ほくそ笑んでアクセルを踏む葬儀屋が、懺悔のために神父の養子を同乗させたとは考え難かった。 「ありがとうございます。これは、いつもより一段とお返しさせて戴かないといけませんねえ」 「そんなのいいのよ、白崎君ったら。あ、そうそう、今日は電車に轢かれかけた男の子のことだったわね。 可愛いって評判で、覚えてるスタッフが多くって、いろいろ聞けたわよ。お姉さんや彼女まで美少女だとか」 と、次に佐原は、ある少年の個人情報を暴露した。もちろん桜田ジュンのことだ。いよいよ本題だった。 「いやあ、わざわざ申し訳ございません。しかしまた、中学生のくせに彼女とは生意気ですね。ね、山本君?」 「えっ? あ、まあ。彼女がお見舞いに来てたんですか。気がつかなかっ……」 山本は言葉を途切れさせ、首を捻った。「お姉さん」は桜田のりに違いないが、「彼女」とは一体何者なのか。 「おや、何かお気づきですか」 「俺、その日、お姉さんには会ったんですけど。あの、佐原さん。その彼女のこと他に何か」 「そうねえ。その子、救急の付き添いで来たみたいで、名前も連絡先も残ってたけど、どうして?」 抜かりなく調査済みだった。佐原はハンドバッグからメモ帳を出し、あるページを後部座席の山本に示した。 そこには住所、電話番号とともに、"草笛みつ"という姓名があり──山本はもう一つ首を捻った。 「どうも、すみません。俺が知ってる子かと思ったんですけど、勘違いだったみたいです」 「そう? 向こうの詰め所で聞いた名前は他に、シスターの柿崎さんと山……山本君ね、アナタだけだったわよ。 そこが不審というか、気がかりな点なのだけど、何でも、まだ親御さんと連絡が取れてないんですって」 佐原はゴシップを楽しんでいた様子だが、山本は眉をハの字にして、喉から暗い声を押し出した。 「俺は海外出張中って聞いてますけど、電話ぐらいは通じてるかと」 「そんなところよねえ、実際は。ちょっと、話に尾ヒレが付いてる感がなきにしもあらずかしら。 あとは、そう、これ噂なんだけど、他院でナルコの治療歴があったみたいなのよ」 「すみません、ナルコ、っていうのは?」 「睡眠障害、分かりやすく言うと居眠り病かしら。神内かプシ行きだから、あたしは世話したことないけどねえ」 病院の待合室で居眠りをしていた山本は、ルームミラーの白崎と目が合って、深刻そうに溜め息をついた。 結局、それらの情報で白崎が目を付けたのは、最初に挙がったジュンの彼女こと、草笛みつだった。 「もう一度、彼女さんのご住所を拝見させて戴けますか。家出少年の潜伏先なんて、大概知れてますからね」 「白崎君も、探偵みたいな仕事までして大変ねえ。早く緑ナンバー取って、ウチの指定にならなきゃね」 「勿体ないお言葉でございます。今後ともご贔屓にお願い致しますよ?」 あはは、と軽い笑い声を上げる葬儀屋の目は、全く笑っていなかった。 善は急げとでもいうつもりか、白崎が車を走らせた先は草笛みつが住むとされるマンションだった。 時刻は正午をいくらか過ぎており、市街地は昼食を求める歩行者で賑わい始めていた。 「電車の音が聞こえますね。最寄り駅まで徒歩3分と言ったところですか」 白崎は徐行しながら窓を開け、通りに面したレンガ張り5階建ての住居を、値踏みするように見上げた。 「おや、ご覧下さい。何やら、見覚えのある方がいらっしゃいますよ」 地上に視線を戻した白崎が、同乗者たちの注意を促した。草笛みつのマンションの前で、 黒衣のシスターが、エントランスの内側を覗き込んでいたのだ。両手で、大きな四角い鞄を提げて。 「うわ、どう見ても柿崎さんですね」 白崎は彼女と示し合わせていたわけあるまいが、理由を考えれば特別に数奇な遭遇ではなかった。 佐原は分かりやすく、口を噤んだままだった。白崎は車を路肩に寄せ、歩道の柿崎に白々しく声を掛けた。 「こんにちはー。柿崎さん、こちらにお住まいだったんですかー」 「はい、入り口の暗証番号忘れちゃって……。あ、白崎さん、こんにちは」 挨拶よりも先に言い訳が返ってきた。やはりオートロックに阻まれて立ち往生していたのか。 車の窓から顔を覗かせる白崎は、柿崎の持つ革張りの鞄に、ちらちらと目が行っていた。 「水くさいなあ。桜田君をお探しなら、僕もご一緒させてくださいよ」 「そんなこと言って、白崎さんはお人形が目当てなんでしょ。あげないけど。あ、山田君、生きてたんだ」 柿崎は車に近寄って中を覗き込み、葬儀道具などと一緒に詰め込まれている山本を発見した。 尼僧から、まるで死んでいたかのように思われていた少年は、がっくり肩を落とした。 「生きてたって……、夢じゃなかったんですか、あれ」 柿崎は、気まずそうに目を背けている佐原には敢えて触れず、白崎の耳元に顔を寄せた。 「わざわざ山田君なんか連れ回してるってコトは、まだジュン君の顔も知らないのね」 「いやあ、これが学校もご家族もガードが堅くて。君も、草笛さんとやらのお顔まではご存じありませんよね」 「うん、ここで待ってても埒が明かないかも。電話かけてくれる?」 白崎は応じて、携帯電話機を胸ポケットから出し、草笛みつ宅へダイヤルして、それを柿崎に手渡した。 何やらこの二人、互いに気心が知れ合っている様子だった。柿崎は電話機を頬に当て、演技を始めた。 「もしもし、草笛さんのお宅ですか。私、お宅様と同じ名字の草笛と申します……、ええ、私も草笛なんです。 突然ごめんくださいませ、お宅様のお荷物が拙宅に届いてましたので、お返しに上がったのですが……。 ええ、草笛みつさん……。いえ、これも神様のお導きです。……あ、はい、いま下におります」 虚言を弄し終えた尼僧は、呆れ顔の葬儀屋に「貴方に神のお恵みを」と謝辞を添えて、電話機を返却した。 「どう致しまして。ただ、その方法だと、入り込めても柿崎さんおひとりではありませんか」 「じゃ、看護師さんとデートでも楽しんできたら?」 要するに邪魔だと言いたいらしい。つれなくあしらわれた白崎に、山本がおずおずと提案した。 「あの、俺、桜田さんの……ジュン君のお姉さんに聞きたいことがあるんですけど」 「仕方ありませんね。では、ここは柿崎さんにお任せしますか。どうせ、彼女さんご本人は今頃学校ですし」 妙に聞き分けのいい白崎に、柿崎は眉を顰めたが、結局口を開かず、走り去るワンボックスを見送った。 ややあって、エントランスから、眼鏡を掛けた女が現れた。「神様のお導き」が効いたのか、 女は一目で電話の主が分かったようだ。大きな鞄を持った尼僧に、引っ詰め髪の頭をもっさり下げた。 「草笛さんですね。わざわざ恐れ入りますー」 「いえ、草笛さん。神様に仕える者として当然のことです」 およそ二十代後半。紺のトレーナーにジーパン、裸足にサンダル履きと、妙齢の女性らしからぬ身なりだった。 女は、尼僧が持ってきた鞄をまじまじと見つめ、それから得心してぽんと両の掌を打ち合わせた。 「やっぱり、この鞄、ウチに間違って届いたのと同じメーカーっぽいです。ホント、凄い偶然ですね!」 「……メーカー?」 「えっと、多分同じところだと思います。飾りも大きさも見分けが……、あ、中は開けてませんから!」 尼僧の顔から笑みが失せたのを見て、女は慌てふためいた。柿崎は鋭い目付きで、女の手を見つめた。 彼女の指には、薔薇の指輪が──いや、嵌められていなかった。柿崎は口元を袖で覆って、ふっと息を漏らし、 それで堰を切ったかのように、大声を上げて笑い始めた。笑いが止まらないようで、女を唖然とさせた。 「あのう、そんなに……、というか、大丈夫ですか」 「ごめんなさい、平気よ。そう、本当に奇跡的ね。神様の思し召しのままに。アーメン」 尼僧の大げさな表現に、眼鏡の女は戸惑いと愛想笑いを返しておいて、踵を返そうとした。 「ええと、待ってて下さい。すぐ持ってきますから」 「そんな、往復させちゃ悪いわ。ね、みつさん。貴女のお荷物、お部屋までお持ちさせて下さらない?」 そんな押しつけがましい善意に対して、草笛みつは曖昧に頷き、拒否しなかった。 さて、佐原看護師の情報によれば、草笛みつなる"美少女"が桜田少年の入院に付き添っていたそうだ。 情報の不足、見落とし、誤認、捏造、考え得る可能性は多々あるが、ひとつだけ確かなのは、 このそばかす面の女性が"美少女"に化ける見込みはほとんどないと言うことだった。 ただ、柿崎は、桜田少年や彼の事故、入院の経緯などについて、すぐさま聞き出そうとしなかった。 「ねえ、みつさん。実は貴女に謝らなきゃいけないことがあるの」 エレベーターの中で、尼僧がそんなことを言い出すと、草笛は不安そうに顔を強ばらせた。 「はい?」 「今朝、お荷物を見付けたとき、どなたの物か分からなかったから、中を見てしまったの。ごめんなさい」 尼僧の謝罪は以上だった。草笛は、別に災厄に見舞われたわけでもなかったので、ほっと胸をなで下ろした。 エレベーターを4階で降り、細くて暗い通路を先導しながら、尼僧の判断を支持した。 「あの、それ、シスターさん……草笛さんは悪くないと思いますよ。普通、そうしません?」 「私のことは、めぐ、って呼んで。ね、みつさん」 「それで、めぐさんは、中を見て私のだって分かったんですよね」 「ええ、貴女宛のメッセージカードが入ってたの。To Mitsu Kusabue, from Jun Sakurada with love」 柿崎は、また在りもしないものをでっち上げて、背後から草笛の様子を窺った。 「えっ、なんですかそれ。プレゼント?」 やはりというべきか、草笛は"Jun Sakurada"の名前に反応せず、気味悪がって口元を手で覆った。 自室の前まで戻り、ドアのノブに手を掛けたところで、もう一度尼僧に尋ねた。 「あのう、もしかしてその箱の中、人形が入ってませんでした?」 「金糸雀。いつものお願い」 瞬間、甲高いバイオリンの音色がコンクリートに反響し、草笛はノブを掴んだまま、目を見開いて硬直した。 尼僧の鞄の中に潜む人形に、弦楽器の魔力で体の自由を奪われたなどとは、夢にも思うまい。 ともかく、柿崎は勝手にドアを開けて、固まった草笛を中に押し込み、土足で部屋に上がり込んだ。 「ん……」 不法侵入者は、まず袖で顔の下半分を覆った。室内は暗く、換気が悪いのかカビっぽい臭いが充満していた。 ダイニング前の廊下に積まれたゴミ袋の上に鞄を放り出し、カーテンの閉め切られたリビングへと進んだ。 その中央には、まだ秋口なのに、堂々とこたつが鎮座していた。まあ、座卓として用いられているのだろう。 卓上には、雑誌、ティーカップ、除光液、ゲーム機、ドライヤー、カップ麺の容器──等々が所狭しと並んでいた。 「ちょっと! ゴミの上に捨てることはないんじゃないかしら!」 持参した人形の抗議は当然無視して、まずカーテンと窓を全開にした。改めて部屋を見渡すと、 足の踏み場がないという程ではないが、片付け下手な女の一人暮らしの様子が浮き彫りとなった。 部屋干ししてある洗濯物の種類と数からも、他に住人がいないことを推理できた。 「油断しちゃダメよ。貴女の姉妹が起きてるかもしれないのに」 「ううっ、この薔薇乙女一の知能犯が、押し込み強盗に成り下がるなんて」 金糸雀が手近にこたつ布団をまくり上げ、人工精霊の光で照らすと、それはあっさり見つかった。 「やったわ、ピチカート!」 草笛が言ったとおり、飾りも大きさも、金糸雀のものと見分けがつかない革張りの鞄である。 ちなみに、こたつの下は丸まった靴下やら何やらの収納スペースと化していたが、詳しく触れないでおく。 「んーっ、この重さ、まだ中で寝てるのかしらぁ!」 「お手柄よ、カナ。ご褒美に、そこのカップラーメンの残り汁あげる」 柿崎は、使い魔によって引っ張り出された鞄の前にしゃがみこみ、早速、躊躇も遠慮もなく蓋を開けた。 馥郁たる花の香りと共に、鮮やかな緋色のドレスを纏った少女人形が、その寝姿を露わにした。 「待っ、心の準備が……って、真紅!」 金糸雀の声が裏返った。背を丸めて胎児のごとく眠る赤い人形に、黄色い小鳥は明らかに脅えていた。 柿崎は構わず、人形の金髪を乱暴に掴んで引っ張り上げた。目を閉ざしたまま、動き出す気配はなかった。 「へえ、これが真紅? このごろ、いろんな自動人形を見てきたけど、これが一番高く売れそうね」 彼女らが言う「真紅」とは、人形を包むベルベットのことではなく、人形の名前であるようだ。 柿崎が高く売れそう評した真紅という人形の装いは、前述の通り華やかな色の素材を用いながらも、 胸元をケープで覆い、襟首すらコサージュ付きのリボンで隠し、スカートは足首にまで届く長い丈、 長く美しい金髪にもボンネットを被せた、ビクトリア朝時代の貴族の婦女子を思わせる潔癖なものだった。 「真紅を、あの人間に売っちゃうつもりかしら?」 「私、人形なんて興味ないもの。でも、もし悪魔だったら……。ふふふ、きっちり審判しなくちゃ」 尼僧は邪悪な笑いに、頬を歪めた。眠る人形の、白いソックスに焦げ茶のリボンを巻いた踵を掴んで、 鞄から引きずり出し、窓のないダイニングキッチンへと向かった。 「火あぶりにして、燃えなかったら悪魔、燃えたらただのお人形ってことで」 「はいはい。燃えたら売り物にならないんじゃないかしら」 金糸雀は止めなかった。暗くて判りにくかったが、そのキッチンに備えられていたのは電磁調理器だった。 住人は普段、料理をしないらしく、廊下との境にゴミ袋が積んであることを除けば、意外と不潔な感はなかった。 「ここ、ガスコンロじゃないのね。ねえ、カナ、マッチ持ってる?」 「持ってないわ。水銀燈だったら、火あぶりとか得意なんだけど」 「じゃ、もういい。後は貴女に任せるね」 「ふぇっ?」 柿崎はあっさり火遊びを諦め、赤い人形をゴミ山に放り捨てて、リビングに引き返していった。 もともと、彼女がこの部屋に侵入した目的は他にあり、偶然発見した人形はそのついででしかなかったのだ。 そのとき部屋の奥から、柿崎とすれ違って、廊下を赤く照らす燐光がすうっと飛んできた。真紅の人工精霊か。 柿崎は見向きもしなかったが、その従僕は大いにうろたえた。 「ホーリエ!? カナはまだなにも……!」 赤い燐光は金糸雀の頭上を素通りし、ゴミの上に伏せる真紅の背に潜り込んだ。カチ、と音が鳴った。 金糸雀は、怖々と、姉妹人形を見上げた。どんなに乱暴に扱われても指一本動かさなかった真紅が、 彼女の人工精霊との接触でスイッチが入ったのか、キリキリと嫌な音を立て始めた。 「これって、やっぱりアレなのかしら、ピチカートぉ」 金糸雀は跳び退いて、起きあがる真紅に注意しつつ、玄関に倒れている人間の女を横目で見た。 「さっきの様子じゃ、この人間は真紅が薔薇乙女だということを知らないハズ。ネジは巻かれてない。つまり……。 恐れることはないわ、金糸雀。私は、薔薇乙女一の陰謀家。まずは笑顔でご挨拶よ」 微かな光を放ち、宙に浮かんだ真紅は、背筋を真っ直ぐ伸ばし、ガサリと、ゴミ山の上に降り立った。 そして、ついにその青い眼を開き、黄金の人工精霊を従えて身構える金糸雀を見下ろした。 「この無礼者」 「お久しぶりかしら……って、えっ?」 「貴女、身動きが取れないのを良いことに、この私をローストしようとしたわね」 と、いきなり真紅は凛然たる美声で姉妹を糾弾した。何と、動かない間もしっかり意識があったのだ。 金糸雀は完全に機先を制され、俯き加減に「あの人、いつも口ばかりだから」と言い訳をした。 「お黙りなさい。またしても人間の下僕に成り下がってるなんて、この恥知らず」 「そんなの、カナだって……」 気弱な姉妹が口籠もると、このいかにも気位の高そうな人形は、ふっと息をついてゴミの上から飛び下りた。 やや背の低い金糸雀と並び立ってその肩に手を置き、一転して、柔らかく微笑みかけた。 「お久しぶりね、金糸雀。あれから何時間経ったのかしら」 「あ、うん、50万時間ぶりくらいかしら」 寛恕を得た金糸雀は、上目遣いで真紅に微笑み返した。覆しようのない姉妹の関係が、そこには存在した。 真紅は、袋詰めされたゴミの山と、ゴミのように転がっている人間を改めて視認し、眉根を寄せて鼻を抓んだ。 「ここは空気が澱んでいて、再会を喜ぶのに相応しい場所ではないわね。それに……」 緋色のドレスをひとつはたいて、リビングと廊下を隔てるガラスドアに、冷ややかな青い瞳を向けた。 「貴女が無理矢理に従属させられているというのなら、あの人間、この真紅が倒してあげてもいいのだけど」 その真紅の囁きに、金糸雀はかっと目を見開いた。真紅から一歩離れ、手の甲で額の汗を拭う仕草をした。 「何を言ってるのかしら。あの人はピチカートに選ばれて、カナのネジを巻いてくれたパートナーよ」 「そう。残念だけど、貴女、ジャンクにされるわ」 ジャンク。その単語に、金糸雀の矮躯がぶるっと震えた。しかし、同時に、小さな唇は左右につり上がった。 「今、真紅が動いてられるのは、前のマスターにネジを巻いて貰ったときの余力かしら。……ピチカート!」 金糸雀が叫ぶと、彼女の鞄からあのパラソルが飛び出した。それは空中でピチカートと合体し、 小さなバイオリンへと変じて、持ち主の手中に収まった。その行動に真紅が気色ばんだ。 「まさか、もうゲームは始まっているというの?」 「そうよ。だから、今パートナーを失うわけにはいかないわ。第一、その体で何が出来るっていうのかしら。 ……でも、真紅。私と真紅とが組めば、その時点で、最後に残る二人が決まるんじゃないかしら」 金糸雀は、バイオリンをギターのように腰に構え、張り詰めたE線を、ピン、と指で抓んでピチカートした。 暗がりに澄んだ音が響いたが、特に何かが起こった様子もなく、真紅はやれやれと両手を広げた。 「この私を利用しようなんて、虫の良い提案だこと。当然、私が主人で、貴女が家来よ」 「せめて参謀って呼んでくれないかしら」 「どうしてもと言うなら、召使いでも奴隷でも構わなくてよ」 二体の人形は一歩距離を置いたまま、互いに目笑を交わした。そして、場を支配していた緊張が解けた。 「そっ、それじゃ、カナが真紅の鞄を取ってきてあげようかしら!」 金糸雀は元気よく挙手し、自分の鞄を拾ってリビングへと走っていった。 「あら、気が利くわね。ついでに紅茶を淹れて頂戴。鞄に私のティーセットが……金糸雀?」 真紅の新たな家来への命令は、最後まで声にならなかった。金糸雀はガラスドアを開けてリビングに入り、 乱雑に物の置かれたこたつの上に飛び乗ったのだが、それらの動作に全く音が伴っていなかったのだ。 「金糸雀!」 真紅は異変を察知し姉妹を追った。が、廊下の半ばで、目に見えない綿のような何かに全身を包まれ、 押し戻されて尻餅をついた。それは真紅との衝突によって波打ち、リビングの景色を揺らめかせた。 「空気の壁……さっきのピチカートで!?」 真紅を見下ろす位置に立った金糸雀が、右腕を垂直に掲げると、その手にバイオリンの弓が出現した。 「こんな悲しい事ってあるかしら。真紅が言ったとおり、カナはジャンクにされちゃうかもしれないわ。 あの人の命令に逆らったりしたら……なんて言ったところで、どうせ聞こえてないかしら」 真紅に対し半身に構え、顎と肩とでバイオリンを挟み、その弦の上にゆっくりと弓を乗せた。 「24のカプリッチオ、第16番ト短調」 静から動へ。運弓に特化した人形の関節が奏でる、優雅にして鬼気迫るプレスト。 解放された窓から、室内の許容量を超えた空気が吸入され、奏者の像をさらに歪ませた。 金糸雀の奏でる狂おしいまでの奇想曲は、空気の障壁を隔てた真紅側にも微かに届いていた。 真紅から見て、右手はダイニングルームであり、背後は玄関である。逃げ場はあったが、問題もあった。 彼女の足元には、人間の雌が目を開けたまま倒れていたのだ。真紅は不本意そうに溜め息を吐いて、 人間の傍らに屈み込み、その左手の薬指に、薔薇の意匠のある契約の指輪を嵌めた。 「目覚めなさい、人間。私は薔薇乙女のドール、真紅。お前の名前は?」 耳を掴んで声を吹き込むと、微かではあったが「みつ……」と反応があった。 「では、みつ。その左手の指輪に誓いなさい。この真紅の忠実なる下僕となり、私のローザミスティカを護ると。 誓いなさい。もう時間がないのだわ。さっさと誓いなさい。誓わないと死ぬ」 執拗な囁きによって、草笛の意識が回復すると、彼女は赤い服の西洋人形と目を合わせ──絶叫した。 「ひいっ! すいません! 誓います誓いますゥ!」 不条理な脅迫にあっさり屈した瞬間、契約の指輪が目も眩む赤い閃光を発した。 同時に、金糸雀の魔曲によって圧縮された大気が弾け、狭隘な廊下に閉じこめられた真紅らを襲撃した。 昼食時のマンションに、突如として爆音が轟き、在宅の何人かが戸外に飛び出した。 そのうち4階に住むとある婦人は、不幸にも事件直後の現場に遭遇し、おたまを手にしたまま立ちつくした。 草笛の部屋に面する通路には、剥離した建材が粉塵と化して、濛々と立ちこめていた。 瓦礫のみならず、コンビニ弁当やペットボトルのゴミが散乱し、その上に外れた玄関ドアが覆い被さっていた。 と、いきなりそのドアが勢いよく跳ね上がった。下から現れたのは、赤い光を帯びて横たわる女と、 赤いドレスを纏った西洋人形だった。人形はドレスの埃をはたきながら、ぶつぶつ独り言を呟いた。 「流石にゴミ袋のクッションじゃ、気休めにもならないわね」 そんな超現実的光景に出くわした婦人は、救急車がどうのと呟いた後、白目を剥いてひっくり返った。 女性が落としたおたまが、からんと目の前に転がってくると、真紅は遠慮なく拝借して、軽く素振りした。 あの気違いじみた旋律は未だ途絶えず、空気の障壁が一度消滅したことにより、大音量で響くようになった。 部屋の奥では、爆風の余波に少しだけ散らかったこたつの上で、金糸雀がその弓に二の矢を番えていた。 「何てしぶといのかしら! でも計算通り! 媒介になりうる人間さえ潰れてしまえば……!」 「お前、選択を誤ったわね」 真紅はおたまをサーベルのように右手で構え、一歩だけ室内に踏み込んだ。そこで、いつの間にか、 黒いベールをはためかせる尼僧が、金糸雀の背後に立っているのを目に留めた。 「ねえ、金糸雀。今、この家のパソコンを調べてたんだけど、いきなり電源が落ちちゃったのよ」 「そんなことより、今は真紅との戦いの……」 「うるさい」 振り返りもせず演奏し続ける金糸雀の尻を、柿崎は勢いよく蹴り飛ばした。 魔曲によって蓄えられ始めていた空気の塊が、制御を失って暴発し、一瞬にしてリビングが損壊したが、 柿崎はそのような現象などお構いなしに、壁まで吹っ飛んだ金糸雀に詰め寄った。 「何勘違いしてんのよ、この土クレが。誰が私の邪魔しろって言った? あァッ!?」 ついに尼僧が本性を現した。口汚く罵声を浴びせ、呆然と座る人形の鳩尾に容赦なく爪先をねじ込んだ。 「ごめっ……許し……!」 「死ね! 死んじまえッ!」 顔面を蹴り、バイオリンをへし折り、また腹を蹴った。度を超した制裁は人形が動かなくなるまで、 ──続かなかった。ある瞬間、金糸雀の姿が掻き消え、柿崎のローファーは空振りした。 「それぐらいにしておきなさい。ドールをなぶり者にするなんて、見苦しいったらないわ」 見かねた真紅が、横から姉妹を救い出したのだ。赤いドレスの人形は、ガタガタ震える金糸雀を片手に抱き、 尼僧に向かっておたまを突きだした。柿崎は天井を睨んで舌打ちしておいて、にっこり不自然な笑みを作った。 「ごめんね、せっかくの姉妹の殺し合いを邪魔しちゃって。さ、続けて」 「流石、金糸雀の媒介ね。常軌を逸してるわ」 もちろん真紅は狂人の勧めに取り合わず、比較的被害の少ないダイニングルームへと金糸雀を連行して、 二人がけの丸テーブルに着かせた。小さな楽士は、ただの人形に成り果ててしまったかのように無抵抗だった。 部屋の主改め、真紅の下僕は、玄関先で失神していた。指輪の力に守られたらしく肉体的外傷はなかった。 寝苦しげなそばかす面に、真紅がおたまを押し付けてやると、彼女は跳ね起きて周囲を見回したが、 まだ半分目が閉じており、再びその場で横になろうとした。真紅はもう一度、おたまで顔面を突いた。 「ちょっとお前、いい加減に起きなさい。夢と現実の区別も付かないの?」 草笛が寝ぼけて「おばあちゃん?」などと呟くと、とうとう真紅は草笛の引っ詰め髪をぽかりと殴った。 低く唸って頭を擡げた草笛は、廃墟と化した自宅に気づいて悲鳴を上げた。が、真紅は対応は冷酷だった。 「家が壊れたぐらいで大袈裟ね。そんなことより、紅茶を淹れて頂戴。10分以内に」 「……え、ロボット?」 「お前、自分の主人の顔も忘れてしまったのね。ああ、情けなくて涙も出ないわ」 そう嘆いた真紅よりも、草笛の方が涙目だった。そこに暗いダイニングから、尼僧の馴れ馴れしい声が掛かった。 「ねえ、真紅。お茶はムリなんじゃない。配電が切れちゃってるもの」 そう。玄関上の配電盤は破壊され、切れたケーブルが飛び出し、家電どころか照明すら使えない有様だった。 「あっ、めぐさん、助け……」 「元はと言えば、金糸雀に対する貴女の躾がなっていないせいよ。やれやれだわ」 真紅が人差し指を振ると、草笛の指輪が赤く輝き、持ち主は右手で押さえて「熱っ」と呻いた。 驚くのはその次の出来事だった。散乱した瓦礫が宙に浮かび、映像を逆再生したように壁や天井に吸着され、 部屋はすっかり元通りに修復されてしまった(ゴミ袋の山も含むが)。これには柿崎も手を叩いて感心した。 「へえ。これって、貴女の力? 幻術、ってわけじゃなさそうね」 「さあ、どうかしらね。私も、貴女には聞きたいことが山ほどあるわ。そこに掛けて頂戴」 真紅は柿崎にダイニングの席を勧め、腰を抜かした草笛をおたまで追いやってキッチンに立たせた。 草笛も、"めぐ"と名乗ったシスターが尋常の者でないと悟ったらしく、怪奇人形と睨み合う彼女を避けて通り、 シスターの向かいにもう一体、壊れたバイオリンを抱いた人形が座っていても、見て見ぬふりをした。 唯唯諾諾と命令に従って棚から紅茶の缶を取ると、早速、真紅がそれをチェックさせるよう要求してきた。 「アッサムはディクサム茶園の秋摘み、FOP。悪くない選択ね。忘れずミルクを付けなさい」 草笛はしゃくり上げつつ冷蔵庫を開き、幸運にも用意のあった牛乳パックとペットボトルの水を取り出した。 すると今度は、「あら、その水は何なの?」などと姑のごとく目を光らせてきた。 「あの……、紅茶用の超軟水……だけど」 「不正解よ。軟らかすぎる水は、秋摘みの葉の渋みを出し過ぎてしまうわ。この場合は、水道の水で充分。 茶葉と同じように、水やミルク、茶器やお菓子も、ただ高価な物ではなく、条件に適した物を選びなさい」 女主人が女中を教育して悦に入ってる間に、どこからか消防車のサイレンの音が近づいてきた。 考えてみれば、現場は間違いなくこの部屋だ。住人の誰かが通報したのだろう。柿崎はそそくさと席を立った。 「バイバイ。次に来るときはアンタたち、死んでるからね」 意味不明な挨拶をして、真紅が引き留める間もなく、玄関から逃走していった。最初からそうしなかったあたり、 この尼僧の方でも真紅に聞きたいことがあったのかも知れなかった。金糸雀は置き去りにされた。 夕刻。町外れの小ぢんまりとした教会に、両手にスーパーの買い物袋を提げた柿崎が帰ると、 門前の路上には、白いワンボックスカーが停まっていた。言うまでもなく白崎の車だ。 同じく路上で、腕に箒を括った山本少年が、隣の公園から風に運ばれてくる落ち葉を掃き清めていた。 「ただいま」 「あ、おかえりなさい。もしかして、買い物に行ってきてくれたんですか」 「山田君のケガが治るまで、毎日店屋物ってワケにもいかないじゃない。お台所借りていい?」 至極、まともな申し出を、山本は曖昧に肯いて了承した。断るのも恐かったのだろう。 再び歩を進めようとした柿崎は、広場のベンチで、二人の男が話しているのを目撃した。 一人は黒尽くめの白崎、もう一人はあまり年相応とはいえない灰色のスーツを着た青年だった。 「あの人、大学病院のお医者さんよね。確か……」 「ジュン君の担当だった梅岡先生です。懺悔したいことがあったとかで……、というか、白崎さんの口車で」 ジュンが異世界に連れ去られたなどと知る由もない白崎が、無駄な努力をしているようだった。 「ふぅん。そう言えば、あの後ジュン君ちにも寄ったのよね。どうだった?」 「お姉さん、留守でしたから」 答えるとき山本の目が泳いだが、柿崎はこれも「ふぅん」と受け流して追求しなかった。 白崎には声を掛けず館内に入り、厨房へと向かう柿崎を、穏やかな低い声が呼び止めた。 「今日、薔薇十字団と名乗る人物から電話があった。シスターの知り合いか?」 この教会の神父は、白いガウンを纏い、くすんだ金髪を後ろで束ねた、白い肌の美青年だった。 「さあ。そんな名前の団体、世界中にごまんとあるじゃない。またイタズラ電話だったの?」 「僕の教会に、あまり厄介事を持ち込まないで欲しい」 唐突に非難の矛先を向けられた柿崎は、「イタ電だったのね」と両手を広げて、買い物袋を揺らした。 シャリシャリ音を立てる左右のレジ袋を、神父の緑の瞳が訝しそうに往復した。 「あの人形はどうしたんだ」 「ああ、アレね。今頃、姉妹と仲良くしてるんじゃない?」 その言葉を神父がどう理解したのかは定かでないが、彼は目元に微かな笑みを湛え、「そうか」と頷いた。 柏葉巴が意識を取り戻したのは、豪奢なベッドの上の、絹のシーツの中でだった。 傍らに安らかな呼吸を感じ、視線を恐る恐る平行移動させると、そこには裸体のオディールが眠っていた。 (続く) 次回予告: 「酷いですよ、柿崎さん! 途中から出てきて主役の座を奪うなんて」 「何勘違いしてんのよ、この脇役が」 「ところで、白崎。僕の若奥様はいつ登場するんだ」 「唐突だね、槐……てゆうか、君、神父でしょ。どうしてもと言うなら、こちらの方でも」 「みっちゃんこと、草笛みつです。ただいま、永久就職活動真っ最中でーす」 「不合格。僕の教会に引きこもりは二人もいらない」 「なっ! 引きこもりとは違うのよ、引きこもりとは! したい仕事が見つからないだけよ!」 「素晴らしいクオリティです」 第5話 語り部 die Erzahlerin ――――――――――――――――――――――――― みっちゃん関係の謎が丸ごと残ってしまいました。 なぜ、みっちゃんは平日の昼間から家にいるのか。 病院に現れた美少女とは、一体誰なのか……次回に持ち越しです。 次回ですが、巴・双子(+お凸)組を中心にするか、 それとも、真紅・みっちゃん(+凸)組を中心にするか。 そこが問題です。